THE READING EXPERIENCE

他人のビジネスを擬似体験できる本こそ至高と信じ、そのような本を発掘・紹介するブログです。

106億円ギャンブルで負けた上場企業・社長の話→「熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録」本紹介/書評/読書感想

会社の金を横領し106億円もギャンブルで負けた人の壮絶な体験記

当ブログ「THE READING EXPERIENCE」は、読書でしか得られない「体験」を紹介するブログです。自己啓発本でもなく、教科書的でもないノンフィクションの実体験こそ、最良のビジネス書であろうと定義し、そのような本の発掘と紹介を目指しています。

本日は、ギャンブルにハマって数億円単位の勝負が常態化し、子会社から巨額借り入れして事件化した「熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録」の本です。「カイジ」が最新話ではワンショット2億円くらいの賭けをしていますが、それを超す掛け金となっています。 (なお記事タイトルは「社長」としていますが、社長時代にギャンブルで借金を重ね、発覚時は「会長」、裁判時には退任となっています。)

熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録

熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録

 

この事件、2011年9月頃にマスコミで話題になっていましたが、覚えていますか?私は当時、仕事にめちゃくちゃのめり込んでいたので、世間のワイドショー的な話題に着いていっておらず、2013年に刊行された本書で初めて事を知りました。いかようにして106億円も負けたのか。借入事件が発覚した時、家族はどうなったのか、会社はどうなったのか。めっちゃブチ切れたのか。裁判はどうだったのか。うーん、めっちゃ気になる!

本書は、「熔ける」というタイトルにもあるとおり、106億円もなんだか負けたのに客観的かつ「勝手になくなっちまった」みたいな自分勝手なタイトルがまず突っ込みたくなるところ。「熔かした」のほうが正しいんじゃないか、と。しかしながら「読書体験」の切り口でいえば、克明に描かれている様々な事実や心情、丁寧に生い立ちから説明してくれる章立てに、ちょっと言い訳や弁解がはいってきて、とても人間臭く臨場感もある仕上がりになっています。

今、井川意高氏は獄中で服役中。またメディアに出てくるタイミングもあるでしょうから、この事件を知らない人もぜひ御覧ください。

事の顛末

皆さん、ギャンブルはしたことがありますか。カジノはしたことがありますか。井川意高氏のカジノにおける舞台は、マカオとシンガポール。最終的にはシンガポールの「マリーナ・ベイ・サンズ」のVIPルームで最後の一敗を喫したこととなるそうです。

まず、カジノとかそういう施設に「VIPルーム」があることなんて私は想像の世界とか、マンガの中でしか知り得ないわけでしたが、それが実在し、また克明に描かれているところに、本書から得られる読書体験の一様があります。また、それが「マリーナ・ベイ・サンズ」であることも、これがノンフィクションではないことを感じさせます。だってここでカジノしたことあるもん…。最小ベッドでちまちまと楽しむだけの観光的な参戦でしたけどね。

借りる。負ける。さらに借りる。さらに大きく負ける。
11年が明けたころから完全に歯止めがきかなくなり、借り入れ金は40億円、50億円……とどんどん拡大していった。

後述するセクションで、この子会社からの借り入れスキームもご紹介ができますが、ではなぜギャンブルが止まらなかったのか。「地獄の釜が開いた」と紹介されています。そして、毎週末、金曜夜に飛行機によりシンガポール入りし、月曜朝に帰ってくるような生活を続けていたそうな。心理描写としてはこのように描かれています。

「今までの勝ちはいったん白紙に戻すのだ。目の前にある20億円を種銭とし、あのときのようにさらに10億円、20億円と勝ちを膨らませてやる。そうすれば今までの借金がすべてチャラになるだけでなく、赤字を黒字に転換して悠々と日本へ帰れる」

この思考法、無限にギャンブルで富を増やし続けられるようなロジックとして、ギャンブルの渦中にある人間が陥るようようです。

ここまでの描写はほんの本書のプロローグなのですが、私も気付きました。マリーナ・ベイ・サンズで行ったカジノこそ、一万円負けて撤退のかわいいものでしたが、株の信用取引で500万円なくなったとき、この考え方をしていたわ…と。2014年の相場で500万円負けたのであるから、相当下手くそだと思うのですが、アベノミクスの恩恵がまた薄い個別株に自分の総資産投資し、ある種のボラティリティの高さに酔っていたところがあります。私は再起不能になる前に損切りをし、その後の投資方法を改めることができたものの、勝っているときには「今までの勝ちはいったん白紙に戻し、その額を種銭にする」という考え方、理解できてしまった(というか過去の自分にあてはまった)瞬間から、本書が他人事にはならなくなってしまい、読了までのめり込んでいくこととなります。

こうして私は、シンガポールの「マリーナ・ベイ・サンズ」でさらなるエスカレーションに突入していった。最終的に私がカジノで負けた総額は106億8000万円にまで膨らんでしまうことになる。

私の場合は500万円の負けでよかった。だからこそ誰にも発覚しなかったし、誰からもお金は借りなかった。もし、106億円なんていわず、1億、いや、数千万・数百の負けに対して借金や横領があったとしたら…。

ギャンブルが公に知られ、誇り高き一族にも知れ、刑事事件にもなろうとは、その過程も前後も、大いに「THE READING EXPERIENCE」の瞬間を楽しみたいところです。

2011年6月、私は大王製紙の会長に就任した。それからほんの数カ月後の9月16日、巨額融資の実態が発覚して会長を辞任することになる。同年11月22日、会社法違反(特別背任)の容疑で東京地検特捜部に逮捕される。そして、13年6月26日、最終的に最高裁判所で上告が棄却され、懲役4年とした一審、二審判決が確定した。

井川意高氏の生い立ち

本書では、井川意高氏の生い立ちから記録されています。本書は一応、井川意高氏としての処女作なのですが、事件が起きずになにかビジネスストーリーを描く本を出版される機会が別の世界線であったのなら、それはそれで成立するほど、彼のビジネス人生とその生い立ちは「エリートそのもの」です。

生まれから大王製紙の三代目

1964年7月28日、私は大王製紙創業家の2代目・井川雄の長男として生まれた。創業者・井川伊勢吉は、私の祖父にあたる。小学校6年の2学期まで、私は大王製紙の四国本社がある愛媛県伊予三島市(現在の四国中央市)で育った。

世襲で2代目となっていた大王製紙・井川家の長男として生まれ、幼き頃から大企業を継ぐのだと使命をもって育った少年時代が描かれています。

当時も愛媛県では最大規模の工場を有し、地域No.1の企業として名を馳せた大王製紙。当時は、教師との対峙や小学生時代の過ごし方など、エリートの使命を追いながらも普通である自分との心の向き合い方も描かれ、これはこれで私が過ごすことのなかった小学生パターンがわかります。こういうのも、貴重な「読書体験」です。

中高生時代から東京で過ごす

オイルショックが一段落した74年の夏には、出版物をターゲットに据えて新たなマーケットを開拓する方針が固まった。出版社は東京に集中しているため、父は75年の年明けから営業本部長として東京に進出し、陣頭指揮を執って出版社向けの紙を拡販することになった。
私は筑駒に入学することにした。筑駒は中高一貫教育であり、東京に出てきてから6年間、私はこの男子校で勉強することになる。
私にとっての東大は、まさにレジャーランドそのものだった。入学した法学部は、試験で一定の点数さえ取れば最後は必ず卒業できる。出欠を取る授業がほとんどなかったため、単位を落とす心配もなかった。

エリートを自覚する思春期のなか、東大への進学がほぼ約束された中学への入学。

東京大学にここまで簡単に進学していると、そうではない私(そして大部分の読者)にはやっぱりエリート街道を魅せつけられるわけです。その中には、父との関係性も描かれ、大変厳しくスパルタ教育が中心だった父に怯えながら暮らしていた苦悩もわかります。

とはいえ、やはりこの辺りの描写も、あくまで「懺悔」としつつも、マスコミによって誤解が生じている井川家や自分本人への言い訳と弁明により、少しでもイメージがよくなればというのが分かる話題が目立ち始める箇所でもあり、さすが「熔ける」という客観的な、あたかもギャンブルで負けたことは人間的な摂理のなかの現象であると言いたそうな全体論調だと見てとれる部分があります。

とはいえ、だからこそ懺悔部分や、その「どの人間でもハマる可能性のあるギャンブルの危険性」的な描写がされているパートも、本ブログ的にはギャンブル・エクスペリエンスが味わえて、面白かったわけですが。

幼少期からの使命通りに生きる井川意高氏

「自分は将来、大王製紙に入り、ゆくゆくは会社を継ぐことになるかもしれない。とはいえ、会社を継ぐのは大変な仕事だ。生半可な気持ちで経営者になれるわけはない」
そんなプレッシャーは、幼いころから私の肩にのしかかっていた。
東大を卒業してから、私は大王製紙社員として公私ともに父という「暴君」の手のもとで生きることになった。

ギャンブルとこの生い立ちが関係あるのか、厳しい親に育ったからギャンブルにストレス解消の活路を見出してしまったのか、いまいちわからないまま本書は終わります。ただ少なくとも弟の井川高博氏はギャンブルに興じておらず、血の影響や家庭の要因は可能性が低いのではと思います。また本人も「すべての経営者がギャンブル好きではない」としているので、経営者だったからギャンブルにのめり込んだわけでもないようです。個々人の性格やきっかけ、または弟との違いでいえば、社長を継ぐことを前提とした生き方が弟よりもプレッシャーがあったとか、そういう可能性は考えられます。

井川意高氏のビジネス論も本書の章立てを構成しています。これも、ギャンブル伝説としてでなければ好きな話はいくつかあったんですけどね。。

学生時代、父から帝王学を学ぶ

「井川は学生時代から、銀座の高級クラブや祇園のお茶屋に毎日通い詰めていた」
私の巨額借り入れ金問題が世間を騒がせていたころ、そんな報道がずいぶん流れた。「毎日通い詰めていた」というほどの頻度ではなかったが、この報道はあながち間違ってはいない

後に紹介する箇所がありますが、井川意高氏は巨額借り入れの事件発覚後、マスコミに執拗に追いかけられ、有る事無い事を報じられる「ワイドショー」のネタとなります。

ワコール2代目の塚本能交社長、中山製鋼所3代目の中山雄治社長、作家の小池一夫先生や東映の渡邊亮徳副社長など、錚々たる大先輩にかわいがっていただいた。
父は時々、私を銀座の店に連れていってくれた。いずれ経営者になるであろうことを見越したうえで、同席させていたのだと思う。父は大学生の私に、経営者としての〝帝王学〟を施し始めた。酒席での交流を通じて、財界の名だたる経営者に次々と私を紹介してくれたのだ。

創業家に生まれ、大企業を引き継いだのは、井川意高氏の父・井川高雄氏も同じであるから、やはり創業家としての苦悩は同じくあったのだと思います。2代目から3代目にかけても、井川家を引き継ぐものとして、学生時代から「英才教育」がされていたことがわかります。

後程、この手塩にかけた息子が、会社から数十億円の借金をした罪で本人が実刑判決を受けるだけではなく、父・井川高雄氏、弟・井川高博氏がそろって会社から追放されただけではなく、株を売り払ってギャンブル借金を一緒に返済することになるのですから、リアルな人生模様を思い描いてしまいます。(それでもお釣りがきて、名誉こそ傷つけられたものの残り余生は悠々自適かもしれませんが、いずれにしても父と弟は完全にとばっちりです。)

井川意高氏のビジネスストーリー

東大卒業後、新卒で大王製紙に入社

1987年3月に東京大学法学部を卒業した私は、翌4月に大王製紙に入社した。
88年に大王製紙三島工場に赴任してから、4年ほどかけて紙作りの現場を一通り見た。木材チップや古紙といった原料が、いったいどのように管理されているのか。原料をどのように処理し、紙の繊維となるパルプが作られていくのか。紙作りの理論や設備の仕組みをみっちり学んでいった。

新卒で、他の企業で修業をするでもなく大王製紙に入社した井川意高氏。これは昔がそういう風潮だったんですかね。世襲はしないと決めている経営者も多いですが(本ブログで取り上げたドン・キホーテ安田氏も同様)、大企業で世襲をする前提なのであれば寄り道する暇もないのかな、とも思ったり。

91年6月には、工務・開発担当の常務取締役に就任した。そして翌92年の正月には、当時は別会社だった名古屋パルプ(岐阜県可児市)に社長として出向している。27歳のことだ。誤解されないように言っておくが、別会社の社長といっても、たいした立場ではない。要するに、大王製紙の可児工場で工場長を務めろという、父からの〝辞令〟だったのだ。

年間70億円もの赤字を出し、900億円もの借金を抱えている会社に出向となった井川意高氏。武者修行として送り込まれながら、自分の創業家のお金がどんどん目減りするわけですから、必至に頑張ったようです。「巨額の赤字体質をなんとかするため、悪夢にうなされながら名古屋パルプの未来について真剣に悩み抜いた」と振り返る本人のとおり、過酷な生活に身を投じており、また別の章では「大王製紙の務めで面白いことはなかった、使命でやっていた」とも述べており。楽しくないのが仕事とはいえさすがに「やりがい」はあるだろうと思うものの、そうでもない井川意高氏に、少し同情してしまいつつある章になっています。

いかんいかん、ギャンブル狂によって迷惑した人側の気持ちなどを大いに汲み取り、被害者がいることを前提に考えなければいけませんね。このような「同情」へリードすることが本書が出版された裏目的のような気もします。

30歳の若さで、専務取締役に就任

「自分の代で会社をつぶしてしまうかもしれない」
非常なる危機感をもって金融機関と対峙したのは、大変苦しくもあり貴重な経験でもあった。92年1月に名古屋パルプの社長に就任してから、95年6月まで3年数カ月の奮闘が続いた。必死に考え働いた結果、年間70億円も出ていた赤字をなんとかトントンの収支まで回復できたことは誇りに思っている。
95年6月の株主総会により、私は大王製紙本社の専務取締役に就任した

入社8年、30歳の若さで、大王製紙本社の専務取締役に就任したことが分かります。仕事はとてもよく出来たようで、父のスパルタ教育の成果か、血の優秀さか、サクセス・ストーリーは類まれなものがあります。何度か申しておりますが、懺悔録ではなく、後継者問題にも日本中で立ち向かう今、立派な自伝書として読みたかったものはありますね。。「紙」という斜陽産業、激化する競争環境のなか、会社を支え、社長を全うした井川意高氏の経営手腕というのは、その生い立ちと教育方法からしても後継する側、後継される側、いずれにしてもサクセス・ストーリーだったわけですから。

大王製紙のBtoC事業、要するにオムツなどを取り扱う「家庭紙事業部門」の事業部長に入ってからの話も躍動感があり、好きです。年間50億円以上もの赤字に苦しむ問題部門だったようですが、現場社員とも向き合い、店頭にも立ち、ブランド戦略から小売の現場での競合との棚取りまでを全うした実績は、単に「家業だから必死にやった」という話では済まない実績。ピーク時では家庭紙事業部門を60~70億円の黒字までもっていけたようで、赤字から100億円の利益を積みましたこととなります。

42歳で社長になる

「意高。お前、そろそろ社長をやれや」
父からの突然の宣告により、07年6月、私は42歳の若さにして大王製紙社長に就任することになった。まさかこんなに早く、社長の座を継ぐことになるとはまったく想像もしていなかった。

上場企業の社長ですからね、世襲とはいえ、世間的にはとても早い出世ではないでしょうか。この章で最も私が参考になったマネジメント論はこちら。

大王製紙の経営者として、私は空虚な言葉だけの議論を徹底的に排除することにこだわった。会議の席上、こんなことを言う人間がたまにいる。「コストを徹底的に削減し、営業部員との意思疎通、コミュニケーションを密にします」
こういう抽象的な言葉が飛び出したときには、私はすかさず具体性を問うようにしていた。「『コストを徹底的に削減』って、どこのコストをいつまでにいくら削減するの?
『営業部員との意思疎通、コミュニケーションを密にする』って、メールを毎日1通は必ず送るという意味?
それとも週に1回は必ず直接会って話をする?」
美麗な言葉を口にしてその場をごまかそうとする人間は、このような指摘をされると、とたんに言葉が詰まってしまう。「コミュニケーションを密にする」など、何も言っていないに等しい。「テレビ会議でもかまわないから、週に2回は必ず開発部と営業部の会議を開く」といったように、具体論を述べなければ仕事は先へは進まないのだ。

私も、キレッキレだったときは、スタッフや外注先に、このような詰めはできていたような気がします。今できているかというと、全然できていないですね。このような鬼ツッコミをする時、自分のビジネスへの本気度や、する相手との関係性もあるかもしれません。なんだか仕事にフルコミットしていないから、相手に優しいことしか言えない。厳しく当たったときのフォローをする前提で正面からぶつかってない。「このレベルで仕事をしなくちゃな。」と素直に思える、ギャンブル本というか、カイジのノンフィクション版かと思った本書で、思わぬ金言にも遭遇したわけです。

「井川さん、あなたは仕事はできる人だったんですね」
特捜検察官からも、苦笑交じりにそんな皮肉を言われ、複雑な気持ちになったものだ。

東京地検特捜部に逮捕されたあとの取り調べにより、こんな証言がされていますが、幾ばくか、仕事のできは良かった彼のストーリーはまた別の機会にたっぷり味わいたいもの。

ギャンブルで106億円負けるまで。また、子会社7社から借り入れするまで

お待ちかね(?)のギャンブル体験パートになります。本を読み始めて冒頭、自分にはギャンブル癖はないと高をくくっていたところ、株取引でギャンブル状態にあった自分の心理状況とシンクロする箇所を見つけ、戦々恐々と読み進めているところ。最初は一単元で数十万くらいの株取引だったのが、一発あたりの取引の利益に目がくらみ、気づけば全力2階建ての数千万のポジションをもっていたっけなぁ。

概要

大王製紙社長に就任するまでの私は、決して毎週のようにカジノへ通っていたわけではない。ゴールデンウィークや夏休み、正月休みや週末の連休を利用して、親しい人間数人と出かけていた程度だ。年間2~3回、多くてもせいぜい年に5~6回程度の頻度だったと思う。
07年6月に大王製紙の社長に就任して、2年が経ったあたりからだ。カジノへの熱の入れ方は急激にエスカレートしていった。勝ち続けて目の前のチップが増えると、次第に感覚が麻痺してくる。1回のゲームで100万円単位を賭けるのが当たり前になり、さらにはマックスベット(1ゲームあたりの賭け金の上限)を張って、1ゲームに1000万円以上ものチップをつぎこむようになった。
08年になるとカジノに通う頻度が上がり、多少負けが込んできたものの、実は09年秋の段階で赤字分を一度すべて取り返している。そこでバカラをやめておけば良かったものの、さらにカジノ通いはエスカレートしていった。
10年になると資金繰りに行き詰まり、グループ企業の子会社からカネを借り入れることを思いついた。

事の顛末を手短に説明し、ハマる過程を上記のとおり紹介すると、最初はお遊びで興じていたものが、いつしか引き下がれなくなった、ということ。年単位で徐々に進行するカジノ。大王製紙グループやそのグループ会社は過去の倒産を教訓にして、常に手元に余裕資金を置いていたからこそ、井川家の支配下にある各スタッフの目をすり抜けて、借り入れが着々と進んでいたよう。

カジノデビュー

私が初めてカジノに出かけたのは、1996~97年ころのことだっただろうか。ゴールデンウィークを使って、オーストラリア東海岸のリゾート地・ゴールドコーストに家族旅行に出かけた。数組の友人家族が一緒だった。

初カジノでの軍資金は100万円だったそう。この時点で、世間一般の人間より随分と掛け金が高いことが垣間見れよう。ここでバカラ(トランプを使った半長ゲームのようなもの)と出会ったことが後の破滅へとつながっていくだけでなく、なんとここで大勝ちしてしまうことが、数奇な運命を決定づけるかのような序章となるのでありました。

2泊3日の初カジノでは、種銭の100万円は失ってしまってもいいと思っていた。その種銭はどうなったのか。なんと私は見事に大勝ちし、オーストラリアから日本へ帰国するときには100万円が2000万円まで膨らんでいたのだ。
当時の私にとって、数日間で2000万円もの大金を手にしたことは、驚きと興奮以外の何物でもなかった。この大きすぎたビギナーズ・ラックが、私をカジノのおそるべき底なし沼へ引きずりこんでいくことになる。

大勝したことが、後の破滅的大敗を呼ぶ。これは、きっと、勝った瞬間にはわからないのではないでしょうか。肝に銘じておくことにします。もしかしたら、本書での最大の学びかもしれません。また、井川意高氏は「これが直接的なきっかけではない」と弁明し、引き続きカジノにのめり込む様を丁寧に描写しているものの、明らかに間接的にはきっかけになっているように思えます。その後も高額な軍資金をもって賭けに興じることとなります。(本人が高額ではないと思っているあたりに、人生を吹っ飛ばせる威力のある「金額」にリーチする可能性が高かったとも思います。)

ラスベガスでのギャンブル体験

いつぞや海外出張に出かけたときに1日空きができたため、ポケットに70万円を突っこんで1日限定でラスベガスまで勝負をしにいったことがある。このときは途中まで大勝ちを続け、一時はなんと4000万円ものプラスになった。ところがそれから急激に負けが込み、最終的には種銭の70万円まで全部スッてしまった。「まあいいや。オレは4000万円負けたわけじゃない。70万円負けただけだ」
そう自分を納得させて、おとなしくラスベガスをあとにした。

他にもカジノ参戦の様子が描かれているのですが、勝ったり負けたりするその過程に興奮を覚えてきたのが、このタイミングだったのではないでしょうか。一方で、ラスベガスは飛行機でも10時間の距離ということもあり、頻度の面ではまだ年数回程度のペースだったようです。

ここで、物語ではキーとなる人物、K氏と出会います。「ジャンケット」という職業を私は初めて知ったのですが、VIPのカジノ客をおもてなしするコンシェルジュのような人のようです。バックグラウンドは描かれていませんが、このK氏が数億円単位でギャンブルの種銭を融資してくくれたりします。カタギな世界ではないんでしょうね。。

「カジノで一度腰を下ろせば、日がな一日ギャンブルを楽しむことができるのだが……」
そんな私に大きな転機が訪れる。のちにジャンケット(仲介業者)としてマカオのVIPルームに私を手引きすることになる、K氏との出会いだ。
K氏の案内で03年ころから時々マカオに遊びにいくようになった。初めてマカオに行ったときには、種銭の300万円は全部スッてしまった。

マカオは、香港まで5時間+フェリーで1時間の距離にあり、日本からのアクセスが優れています。ペースが急激にあがったのはこの辺でしょうか。ここからさらに、カジノにはまりはじめます。また、マカオとK氏のコンボにより、借金システムと出会ってしまうことも、破滅を呼ぶ不運な出来事だったと思います。なんだか、オーストラリアでの初カジノからここまで、一本の線で導かれているような、カジノ産業がつくりあげた超効率・廃人化システムにそのまま乗ってしまったような、そんな気がしてしまいます。

2回目にマカオで2泊3日の勝負をしたときには、やはり種銭の100万円を失ってしまった。このときに初めてジャンケットを通じてカネを借りるシステムを知り、借りた500万円を新たな種銭としてリベンジを期した。その500万円もゼロになってしまおうかという終盤、最後の30分で奇跡が起きた。
私は思いきった勝負に出た。そこから一気に600万円以上を盛り返し、500万円の借金をその場で返しただけでなく、元の種銭100万円まで取り返すことができたのだ。こういうミラクルがあるから、人間はカジノにやみつきになってしまうのだろう。

はじめて借金をしたものの、それをその日に返す。これもまた、彼を一層悲運に導くきっかけだったのかもしれません。辞めるきっかけ、ぶっちゃけ何度もあったわけですが、徐々に「快感」になることを含め、感覚が狂っていく様もわかるため、結論を知っているだけに読み進めるペースも上がってしまうところ。「こういうミラクルがあるから、人間はカジノにやみつきになってしまうのだろう」とはまた客観的な描写で、ツッコミを感じてしまうポイントなのでありますが、上から目線で「俺はこんな人間じゃない」と馬鹿にするのではなく、あくまで真摯に学びたいところ。ギャンブル・エクスペリエンス。

カイジだったら、底抜けなダメ男を見て「俺はこんな人間じゃない」と物語として没入することができますが、きちんと仕事を頑張ってきた人の物語なだけに、再現性があると思うんですよね。

VIPルームの客は数千万円、ときに億単位のカネを使うため、カジノにとっては専用の個室や駐車場を準備することなど必要経費の範囲内だ。スイートルームなりセミスイートなりに泊まると普通は1泊30~40万円はするわけだが、私の場合いつも無料で泊まることができた。往復の飛行機はビジネスクラスを確保してくれ、もちろんフライト代も無料だ。
「ウィン・マカオ」の場合、移動に際してはよくロールスロイスを手配してくれた。空港に降り立って入国審査を通過した瞬間、黒塗りのロールスロイスがスタンバイしていてくれる気分は悪くない。「ウィン・マカオ」という戦場へ向かう人間にとって、自然と気持ちも高まっていく。

その後、カジノに勝ったり負けたりしながら、ジャンケットへの借金を返すために個人的な資産を取り崩していく様子が描かれていきます。また、カジノのVIPルームに関する説明も丁寧に描かれており、「VIPルームってこうなっているんだ」と行った気分になれるのも、本書の大きな魅力。自分でいくような事態になる前に、満足できているので、それはそれで良しとしよう、そう思えるのです。

カジノで使う金額の大小によって配車が変わる(例えばBMWになる)等といった待遇の差もはっきりしているようで、もしそんな違いで優越感を得たり、もっと大勝負をしようなどと考える瞬間があったら、それこそノウハウの塊のようなカジノが一枚上手だったことにはならないでしょうか。まぁ、ハマる前の冷静な状態でなにを論じようが、机上の空論なのでしょうが。。

破滅のはじまり。大王製紙の連結子会社数社からの個人的借り入れ

2011年4月以降、私はほとんど毎週のようにマカオへ出かけてバカラをやり続けることになる。金曜日の夕方に仕事を終えると、その足で羽田空港へ向かう。金曜日の深夜にはマカオ入りし、ほとんど眠らずに勝負をし続ける。
ジャンケットのK氏がコンシェルジュのようについてくれるようになってから、カジノでの勝負はどんどんエスカレートしていった。K氏の口ききによってカジノの運営会社に数千万円、数億円という借金を重ね、負けはどんどん拡大していった。
どうにかして負けを埋め合わせなければならない。私は個人的事業のつなぎ資金という名目で、大王製紙の連結子会社数社から10億円を超えるカネを引っ張るようになっていった(

カジノで出来た借金を返済するために、大王製紙の子会社から資金調達をはじめることとなる井川意高氏。本書でも、オーナー企業であることが、どこか正常な意思決定を欠くというか、「返せばいいだろう」といった考えに陥っていたことを認めています。また、とっくに勝ち負けの次元ではなく「カジノ」自体へ没頭することによる快楽にハマっていることもわかります。

カジノのテーブルについた瞬間、私の脳内には、アドレナリンとドーパミンが噴出する。勝ったときの高揚感もさることながら、負けたときの悔しさと、次の瞬間に湧き立ってくる「次は勝ってやる」という闘争心がまた妙な快楽を生む。だから、勝っても負けてもやめられないのだ。地獄の釜の蓋が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦がれるような感覚がたまらない。このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う

そして止まらないギャンブル。週末にマカオかシンガポールに出掛ける井川意高氏。ジャンケットによる借り入れの前にも、マカオでの「クレジットカード現金化」により3000万円をつくっていた実態なども記録されていました。初期の、オーストラリアやラスベガスでの軍資金100万からの出発から、数千万のステージ。そして、負けが込む度に掛け金を引き上げて、取り戻そうとする井川意高氏。明らかに子会社からの借り入れにより、一勝負で数億円規模の泥沼勝負が常態化しています。

総額106億8000万円の借り入れ金
【2010年】
■5月12日ダイオーペーパーコンバーティングから5億5000万円
■6月1日エリエールペーパーテックから2億5000万円
■6月18日エリエールペーパーテックから2億5000万円
■6月23日エリエールペーパーテックから4億5000万円
■8月23日エリエールペーパーテックから5億円
【2011年】
■1月5日ダイオーペーパーコンバーティングから7億円
■1月14日エリエールペーパーテックから4億円
■2月9日エリエールペーパーテックから4億円
■2月9日大宮製紙から6億円
■3月11日エリエールペーパーテックから2億円
■3月24日大宮製紙から3億円
■4月6日大宮製紙から3億5000万円
■4月7日エリエールペーパーテックから3億円
■6月15日大宮製紙から3億3000万円
■6月23日ダイオーペーパーコンバーティングから7億円
■7月1日いわき大王製紙から16億5000万円
■7月14日ダイオーペーパーコンバーティングから4億円
■7月19日いわき大王製紙から2億円
■8月2日いわき大王製紙から4億円
■8月16日大宮製紙から6億5000万円
■8月16日大宮製紙から5000万円
■9月1日ダイオーペーパーコンバーティングから1億円
■9月2日赤平製紙から3億円
■9月5日エリエールテクセルから4億円
■9月6日エリエールテクセルから1億5000万円
■9月6日富士ペーパーサプライから1億円

以上、合計106億8000万円。
巨額の資金は、「LVSインターナショナルジャパン」というカジノ会社に直接送金した8億5000万円を除き、すべて私個人名義の預金口座に振り込まれ続けた。

最後の敗北、マリーナ・ベイ・サンズでの週末

「バカラで5時間かけて勝負した結果、500万円が1000万円に膨らんだ。ならば10時間かければ、1000万円を2000万円にまで増やせるはずだ」「運とツキさえ回ってくれば、500万円を5億円に増やすことだってできる。現に150万円を4時間半で22億円にしたことだってあるじゃないか。目の前にある20億円を30億円、40億円にまで増やし、今までの借金をすべて取り返すことだってできるはずだ──」
忘れもしない。あれはマカオの「ウィン・マカオ」でバカラをやっていたときのことだ。数百万円の種銭からスタートし、あるときは5億円、別のときには7億円の勝ち逃げに成功したことがある。それどころか、12億円、15億円という巨額の大勝ちも経験済みだ。
「井川さん、そろそろおやめになったらどうですか。もうすでに、テーブル上のチップは20億円もあります。ここでいったん勝ち逃げし、ワンクッション置いてからもう1ラウンド勝負しては……」
シンガポールの「マリーナ・ベイ・サンズ」で私をアテンドしてくれていたカジノのスタッフは、テーブルの上に20億円ものチップを積んだまま、一向に勝負をやめる気配のない私を見かねて、たまらずといった感じで声をかけてきた。
いくら大勝ちした状態だからといって、これまでのカジノ遍歴をトータルで勘定すれば、とうてい赤字分を補填するには足りない。この20億円を原資として、今日中にさらに盛り返すのだ。スタッフの気遣いに耳を貸すこともなく、そのまま勝負を続行した

106億円にまで負けを積み重ねる背景には、もうそろそろ誤魔化せない、逃げられないという背水の陣状態であったこともあったでしょう。

 運と偶然性のみが支配するバカラの勝負に、私は全生命を賭けて挑んだ。目の前に積まれた20億円によって、カジノ史上誰も成功させたことがない奇跡を呼び起こすのだ。そして私は伝説をつくる。目の前で開きかけた地獄の釜の蓋を、我が強運によって轟音高らかに閉じてみせる──。 だが、ひとたび開いてしまった地獄の釜の蓋は、二度と閉じることはなかった。48時間の死闘が終わったとき、私は煮えたぎる溶鉱炉のごとき奈落で熔解していた。

私のささいな株取引の損失から、いくつか共感できる心理状態はありました、「勝ちをゼロにして、その種銭をもってもっと勝つ」とか。しかしながら「伝説をつくる」という思考回路に陥っているのは、全く同情が沸かず、この考えに至っている自覚があると、もしかしたらブレーキをかけたほうがいいのではないでしょうか。しかしながらそんな上手くいくわけもないのもわかる。「伝説をつくる」等と考えなければいけない状態になっていることが既に悪だし、崩壊している状態である、ということでしょう。

実は井川意高氏は、ギャンブルに勝ったり自身の株の現金化を行ってこまめに子会社に対しても借金の返済をしていたことと、7社に渡るバランスを考えた借金采配により、バレにくくなっていた点が、ここまでのベッド金額の高騰を招いた様子。発覚した段階で、借入残高は50億円超。破滅した状態でシンガポールを後にし、ある日突然、日本での発覚となるわけですが、シンガポールからの帰路はさぞかし、常夏の南国でも寒さで身の震えるような状態だったでしょうね。正直この辺の描写は本で詳しくして欲しかったのですが、想像で補うこととします。

ついに、巨額借り入れがバレる

2011年9月7日、大王製紙の連結子会社7社から資金を借り入れ続けていた事実が、社内メールの告発によって発覚してしまったのだ。

私が数少ないギャンブル体験を得ている漫画「カイジ」の印象だと、大敗を喫したらその場で処刑されたり、どこかに連れ去られていくイメージがあります。井川意高氏の場合、ギャンブル会社には借金をすべて綺麗に返済しているため、足がついたのは、借り入れをしていた大王製紙子会社から。奇しくも、シンガポールで種銭を全て失った後となります。

なぜ、淡々と借り入れができたのか?

普通の株式会社組織では考えられないような単純な方法で、私は子会社に常識はずれの貸付をさせていた。
子会社からカネを借りるにあたっては、私から子会社の役員に直接電話連絡を取っている。資金調達の理由について、多くを説明することはなかった。「個人的に運用している事業がある。至急×億円の貸付を頼む」
そう説明すると、「わかりました」
と言ってすぐに資金を調達してくれた。
監査法人のトーマツは、10年7月29日の段階で資金貸付に気づいた。トーマツが経理担当者にそのことについて尋ねると、担当者は「井川の判断で事業活動の運転資金に充てている」という旨の返答をしたらしい。トーマツはその説明に納得し、さらに厳しく追及することはなかった。
その後、11年5月6日に私はトーマツの担当者と面談している。
大王製紙には常勤監査役が2名おり、そのほかに弁護士2名、元国家公務員1名による非常勤の社外監査役を置いている。監査役会が開かれたときにも、不正貸付についてのチェック機能は働かなかった。

社内でも、井川意高氏の借り入れは把握されていたようですが、あらゆるチェック機能をスルーしており、会社の体制が疑われるには十分すぎます。貸付に協力した役員は、東京地検特捜部の取り調べに対して「井川家が怖かった」という旨の供述をしているようで、それが7社に分散していたからこそ、さらに気づきにくい状態だったのでしょう。

借り入れ20億円の段階で、父にはバレていた

私の父・井川雄(大王製紙顧問)は、実は11年3月の段階で20億円分の借り入れの事実に気づいていた。「コノヤロウ!
お前は何をやっているんだ!!」
借金の事実を知った父は、烈火の如く激昂した。私だけでなく、資金調達を許した子会社の役員にも電話をかけて怒り心頭に発したと聞く。「この借金はどうしてつくった!」「FXです」

ここでは個人的な投資という言い訳をして、暴君である父の指摘から逃れる井川意高氏。

「バカヤロウ!お前がもっている株を売りはらって、早いところお前自身の手で借金のカタをつけろ!」
こうして私は、11年4月に子会社のエリエール総業に自らが所有する株式を譲渡することになった。だが、父は知らなかった。実は、これで借金すべてを返したわけではなかった。バツの悪さや父の怒りへの恐怖もあり、私は借金の全貌を知られないようにしたからだ。

当然、激昂ですよね。父が借金の実態に激怒したのはここが初めてなのですが、その後の描写が本書では薄かったのは残念。全容が発覚した後や、実刑判決を受けた後のリアクション、もっと見たかった。ドロドロとした人間模様をもっと知りたかったが、ぶっちゃけ井川意高氏は親族とも顔を合わせていなかったのでは、綺麗にコミュニケーションを図っていなかったのでは、とも思えます。

社会的な制裁を受け、また実刑判決も決定。家族もバラバラに

なぜ連結子会社からカネを引っ張ることへのハードルが、私の中で低かったのだろう。「過半の株式をもっている会社から、一時的にカネを融通したって問題はなかろう」
こんなことを口にすれば、多くの読者から批判の声を受けることは承知しているが、そんな軽い気持ちがあったことは事実だ。

明るみに出れば、東大卒の上場企業会長がカジノで大敗&子会社から巨額借金、珍事中の珍事です。本書では、その後マスコミによる蜂の巣を突くような勢いの猛攻を受け、本人のみならず親族それから役員へも執拗な取材、それから有る事無い事を掻き立てるワイドショー的な報道が連日日夜続いたということです。

私の巨額借入事件により、創業者である井川家は大王製紙から排除されてしまった。父・雄だけは顧問という形で今も会社に残っているものの、かつてのような発言権はない。
大王製紙の取締役を務めていた私の弟・高博は、2011年10月の段階で会社から辞任を求められていた。弟は辞任を拒んだものの、株主総会前日の12年6月に大王製紙を去っている。創業家の取締役だが、弟に退職金は支払われなかった。この件に関して弟の口から恨みごとを言われたことはないが、私の馬鹿な行ないの結果だと思えば、ただただ頭を下げるしかない。
こうして、祖父・伊勢吉の代から築いてきた井川家3代の歴史は灰燼に帰した。
12年6月26日、井川家は大王製紙並びに関連会社のすべての株式を北越紀州製紙に売却している。株式売却が合意に至ったおかげで、一審判決を前にして私はすべての借金を返済することができた。

この事件をきっかけに、大王製紙と創業家の対立が深まり、父も弟も立場を無くす事態となっています。井川意高氏、ここで弟と恐らく顔を合わせておらず、何の感情も引き出していない本書に、ある意味で家族のリアルを感じるところがあります。絶対、弟、怒ってるもんね…。

ここでは、株式全部の売却により50億延長の残高があった借金返済を完了したとのことで、創業者の孫に生まれある程度上場企業の株を持っている、ということの資産的な威力も感じます。この辺ですよね、この辺りもとてもおもしろい「疑似体験」のシーンとして、また読書でしか知り得ないリアルとして、読書の楽しみが詰まってもいます。

最高裁判所で上告が棄却され、懲役4年とした一審、二審判決が確定

2012年10月10日。私は現代の御白州で裁きを受けようとしていた。罪状は、我が大王製紙の連結子会社から55億3000万円を借り入れた会社法違反(特別背任)だ。検察から求刑されていた懲役6年に対し、東京地方裁判所の裁判長は、懲役4年の実刑判決を言い渡した。覚悟はしていたものの、予想どおり執行猶予はつかない。借金はすでに全額完済していたが、やはり執行猶予つきの大岡裁きを受けられるほど甘くなかった。
2013年6月26日。
最高裁判所で上告が棄却され、懲役4年とした一審、二審判決が確定した

取り調べを受けるシーンも量を割いて解説されており、刑事事件エクスペリエンスの過程も大変に楽しめます。

本書は、刑量が確定し、服役をするまでの間に書かれ出版されています。今頃は服役している井川意高氏。カジノにはまった記録を公開する、という社会貢献的な出版意図に隠れつつ、マスコミによって有る事無い事が報道された件についての弁明を行いたい、という思いが見てとれますが、それでも克明に描いてくれた本書には、各所のツッコミどころをAmazonレビューに書きなぐりたくなるものの、謙虚に学ぶ姿勢で読み取れば、十分に身になる箇所も多い本です。だって、106億円という金額はさておき、ギャンブルで身を滅ぼす過程、これ再現性ありますもん。

本事件で被害にあった方々、迷惑を被った方々のことを思うと、単にエンターテイメントとして楽しめましたというわけにもいきません。ブランドの毀損を含め会社に損害を与えたことは事実かと思います。出来るだけなにか社会に学びを発信する形で紹介ができていればと思うとともに、個人的なビジネス体験として学びになればと思います。なお、本ブログでは紹介しきれれていない「実名の交遊録」「メールでの事件発覚から裁判の詳細な過程」など、味わい尽くすに時間を忘れる記録がまだまだあります。ぜひ本書を手にとってみてください。

今日の「THE READING EXPERIENCE」

本書の中のエクスペリエンスで一番気付きだったのは「初カジノでは、種銭の100万円は失ってしまってもいいと思っていた。その種銭はどうなったのか。なんと私は見事に大勝ちし、オーストラリアから日本へ帰国するときには100万円が2000万円まで膨らんでいたのだ」でした。ビギナーズラックで勝ったとき、当然浮かれていると思いますが、それが後の破滅につながると誰が想像できますか。

なにか大勝ちしたときに「これは大丈夫なのか」と振り返ること。冷静な一面をもって評価できるのか。これはギャンブルのみならず、ビジネスでも同じではないでしょうか。井川意高氏が106億円まで負けを積み重ねた出発点が、これだったわけですから。

熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録

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