THE READING EXPERIENCE

他人のビジネスを擬似体験できる本こそ至高と信じ、そのような本を発掘・紹介するブログです。

在日韓国人の孫正義が起業するまで/「あんぽん」読書感想

孫正義は朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ立て小屋の中で、膝まで水に浸かりながら、必死で勉強していたという。

孫正義氏の生い立ちについては、自身も多くを語るようになり広く知れるようになりましたが、それではノンフィクション作家の佐野眞一氏が書き上げた「あんぽん 孫正義伝」は読んだことがありますか。2011年に週刊ポストで連載後、2012年に発刊されておりますが、韓国にまで赴き孫正義のアイデンティティを探り、ご両親や親族から得た話は、今でも色あせない話がざくざく出てきます。

あんぽん 孫正義伝

あんぽん 孫正義伝

 

 当ブログでは、「自己啓発本でもなく、教科書的でもない、他人の人生を疑似体験できる本こそが至高のビジネス本」と位置づけ、そのような本の発掘と紹介を目指しています。孫正義氏の、とりわけ壮絶な幼少期を取りあげずして、他にどんな本を紹介してる暇があろうかと、本棚から引っ張りだして、他に予定してた「スターバックス」「大王製紙のギャンブル社長」等の順番抜かしして記事を執筆しているところです。

もちろんビジネス史としての孫正義史の活躍も、面白いでしょう。「自動翻訳機をシャープに売って資金調達」「ヤフーBBのモデム無料配布」「総務省にガソリンぶっ掛けて火をつける」等の武勇伝は大変痺れますし、そのようなエクスペリエンスもまた違う機会でご紹介したいところ。

しかしながら、世のヒーローはどのような原体験があったのか?という点も興味深く調べている私にとって、冒頭にある出来事をはじめて本書で知った頃の驚きは隠せません。そして、なにやらタブーではないかと思い込んでいた「在日韓国人」としての孫正義氏について、ここまで切り込んだ本もなかろうかと。著者・佐野氏が徐々に切り込んでいく取材により、真実が明らかになるたびまた次の章を読み明かしたいと迫られる。夜更かしにもなります。

逆に言うと、孫正義氏の「起業後」に関しては記述が薄い本書。その点で期待はずれの方のレビューが目立つのですが、だからこそ幼少期のフォーカス具合、深さは相当なものです。「強烈な原体験」シリーズ、当ブログ「THE READING EXPERIENCE」では大好物な部類にはいります。

幼少期や青年期に起きた強烈な体験や挫折・失敗があるひとは、強い。私の解釈では、孫正義氏はこれにあたる成功要因があるだろうと思っていたため、本書で描かれている「事実」にはひたすら驚きを隠せず、高いテンションのまま読了をしました。自分にはそんなものが無いからこそ、他人の人生を疑似体験し少しでも学ぼうと思っています。ぜひ氏の幼少期・青年期に迫ってください。

※なお、「在日韓国人」「在日朝鮮人」と2つの言葉が本書内でも使い分けがされておりますが、恐らく明示的に韓国人だという際に前者、よくわからない時に後者がつかわれているような気がします。つまり特に深い意味はないと思います。

生まれた頃から地獄の環境

孫はいまから五十五年前の昭和三十二(一九五七)年、佐賀県鳥栖駅に隣接し、地番もないという理由で無番地とつけられた朝鮮部落に生まれ、豚の糞尿と、豚の餌の残飯、そして豚小屋の奧でこっそりつくられる密造酒の強烈なにおいの中で育った。
「まあ、とんでもないところでしたよ。バラックというか、掘っ立て小屋ですな。粗末な家が軒先を連ねるように並んでいてね。全盛期には数十戸、人数にして三百人くらいの朝鮮人が住んでいましたよ。
みんな貧しかったから、豚を飼ったり、鉄屑を拾ったり、密造酒をつくったり、そんな家ばかりでした。線路脇ですから、SLの時代は汽車の音がうるさいだけじゃなく、煤煙が家の中まで入り込んで、壁まで真っ黒になった。とにかく上空まで煤煙で真っ黒になって、〝鳥栖の雀は黒雀〟と言われたほどです」

それまでは、武勇伝として語り継がれるベンチャー企業の成長記録を簡単に読む程度、「孫正義さんすごいなぁ。」とのんきに憧れたりしていたわけですが、それまでこのような出生伝を知らずして孫正義氏を語っていたのかと、強烈になにかもやもやが貯まるところです。 そもそも日本にそんな地域があったのかと。戦後ってそうだったのかと。なにやら差別があったり、病気をしたりといったストーリーは聞いたことがありますが、佐野氏が自ら親族にインタビューを敢行したからこそ知り得たこのファクト。

戦後の在日韓国人の扱いや、集落でどのように生活をしていたのか、なかなか知る機会がなかったため、なおさら日本の歴史や秘部を紐解いていくようで、そして孫正義氏を創りあげた「なにか」に近づいていくようで、ひたすら文字を追うところ。 ただひたすら、極貧の描写が続きます。

孫家とともに集落に住んでいた在日朝鮮人の話

「残飯を集めるのは女性たちの仕事でした。リヤカーを引いて近所の食堂を回り、残飯を集める。鳥栖は交通の要衝でしたから、九州全域から集まってくる行商人たちのための食堂や旅館も多かった。だから、残飯も大量に出たんです。集めた残飯は、大きな釜で一度炊くんです。消毒みたいなもんですな。
あまり大きな声では言えませんが、密造の焼酎も作りましたよ。まず、ドラム缶にもろみを貯め込んでね。そいつを釜に移して炊くんです。沸騰したらフタをしっかりして、中の蒸気をビニールのパイプで逃がしてやる。その長いパイプを途中で水の中にくぐらせて冷やしてやると、蒸気が再び液体に変わる。
パイプの先端からぽたぽた落ちてくるその液体を容器に貯めるんです。最初に出てくるのはアルコール度数七十くらいの濃い液体ですが、数十分すると、アルコールがほとんど飛んだ液体が落ちてくる。これを混ぜ合わせると、アルコール度数三十くらいの焼酎ができるんです」

上記のインタビューは、孫家とともに集落に住んでいた在日朝鮮人の話。みんなが極貧からのスタートで、必至に生活をしていたことが伺えます。

「狭い豚小屋にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、残飯ばかり食わされ、糞も小便も垂れ流しです。だから地面がぬかるんで、鼻がまがりそうな強烈な臭いがする。病原菌が感染したんでしょう、足が腐った豚もいた。
しかも、その場所で豚を絞めるんです。解体して肉やホルモンをとる。食べる部分以外は、朝鮮部落前にあるドブ川に流していたから、すごい臭いなんです。
豚の血も平気で流していました。そこに雨なんかが降ると、もうたいへんです。ものすごい臭いが周辺に流れてくる。でもいま思うと、それも密造酒の臭いを隠すためだったんじゃないですかね」

主に密造酒の製造販売をしていたのは、孫正義氏の父・三憲氏。この三憲氏も仰天エピソードが豊富にあり、後程章を設けていますが、本一冊は余裕でだせそうなくらい。いまの暮らしが当たり前となった日本人には到底想像のつかないこの生活ですが、本で読むだけの疑似体験でよかったとも思います。

孫正義氏の父親の姉の「ウンコ臭い水」の話

「思い出すのは、朝鮮部落の脇に流れていたドブ川です。そのドブ川が、大雨が降るとあふれ出すんですよ。ええ、洪水です。あっという間に部落全体が水没してしまう。その中に豚がぷかぷか浮かんだりしてね。ついでに豚のウンコまで浮かびあがる。
それが井戸の中に流れ込む。水道なんてありませんでしたからね。そんなことがあると、しばらくの間、井戸の水が臭いのなんのって。豚のウンコの臭いがするんだから。その水を飲んだり、煮炊きに使ったりしたんだから、よく腹を壊さなかったもんだよ。
大金持ちになった正義が、いまどんな水を飲んでいるかは知らんが、あいつだって、ウンコ臭い水を飲んで育ったんだ」

先ほどの在日朝鮮人のインタビューのみならず、同じく集落があった周辺でインタビューを重ねる内、孫正義氏の父親の姉が経営する焼肉屋を発見する著者。接触しインタビューに成功しますが、またこの話がもっと強烈なパターンで出てくるので、輪をかけて脳内に掘っ立て小屋の情景が思い浮かぶのです。間違いなく、この本で熱量のこもったピークのひとつであります。

後述しますがこの時、孫正義氏、6歳頃でしょうか。私自身は、普通の家でありがたいことに普通に育てられ、6歳までの記憶というと断片的なのですが、三つ子の魂百までとも言うとおり、人格を形成する時期です。人格が捻じ曲げるほどの出来事や環境に身をおいた方の立身伝をよく聞きますが、もしそのような幼少期の経験が「貪欲さ」「根性」そういったものを生み出すのであれば、もう、はじめからなかなか孫正義氏に勝てないのです。

成り上がっていく孫一家

孫一家がそうした闇商売に携わっていた期間は、ごく短い。彼らはすぐに別のビジネスに転身していった。そこで驚くべきスピードで築きあげた富が、孫正義をブレークスルーさせる最初の原資蓄積過程だった。
孫一家は正義が小学校にあがる頃、鳥栖の朝鮮部落を離れ、北九州市八幡西区に移り住んだ。JR黒崎駅から車で十分ほどのところである。在日韓国・朝鮮人が比較的多く住む場所として地元では知られている。

幼少期である孫正義氏よりかは、立派な大人として当時を過ごした家族のほうが、苦痛は大きかったと思います。人生をかけて大きなビジネスをし、転身していった様は、父・三憲氏も同様。極貧時代を経て、孫正義氏が正常に学習できるような環境が徐々に整うのでした。


三憲は金貸し商売をやりながら、「これは長くやる商売ではない」というのが、いつもの口癖だった。「カネはあくまで商品。カネ貸しだからといって、下品にふるまってはいけない」というのも、三憲の口癖だった。
孫が十歳になった頃、三憲は金貸しからパチンコ屋に転身した。
一九八〇年代の初め、大当たりが出るフィーバー機の規制がまだ始まる前のパチンコブームのときには、孫一族七人兄妹のうち六人が持っていた佐賀と福岡のパチンコ屋だけで、五十六軒もあった。その当時、パチンコで大儲けした孫一族の一人が建てた御殿のような豪邸は、いまでも一族の語り草になっている。

ちなみにパチンコで家族を養っていたそうな。すぐに商売が手広くなるあたり、ちまちまとしか商売ができない私にはこの辺りの話ももっと詳しく知りたいものですが、なにより出生が違うことから湧き出るエネルギーが圧倒的に違うのでしょうね。満たされていると、伸びない。極貧時代を経て、差別されながらも、56軒もパチンコ屋をやってたなんて、話の展開が早すぎます。

また、孫正義氏は父・三憲氏からビジネス思考や数々の援助を受けることになり、大きな影響を受けていることもわかります。

この時代を振り返ってのやりとり

朝鮮部落に生まれ育った孫正義氏は、後世になってこの時期をどう振り返っているのでしょうか。佐野氏のインタビューにより、振り返られています。

孫は、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いがする朝鮮部落で、「戦後ではない」どころか、敗戦直後以下の極貧生活を体験してきた。──これは同世代のどんな日本人にも真似できません。
「確かに幼い頃のあの体験が、人生は絶対這い上がらなきゃいけないんだ、と激励してくれているような気がしますね」──もう一つ大事なことは、極貧生活がごく短期間だったということです。もし中学くらいまで極貧生活が続いていたとしたら、きっとぐれちゃったんじゃないですか。「そうかもしれません」

とてもショッキングな事実だしインパクトもあるのですが、上記の通り孫正義氏の人格を形成する土台になっています。一方で、もっと氏の人格を捻じ曲げるまで、性格を決定づけるまでのエクスペリエンスは、「韓国人に対する差別」であったとわかります。

大躍進の孫家、部落を脱出するも差別に悩む孫正義氏

壮絶な経験を経て、すでに大人びている小・中学生時代

三憲がパチンコで成功すると、今度は鳥栖の郊外に、坪三万円という格安値で九百坪の土地を手に入れ、そこに城のような豪邸を建てた。
北九州に引っ越した正義は、北九州市立引野小学校に入学した。引野小学校の同級生によれば、孫正義はこの付近では珍しい、上品な感じの子どもだったという。「とにかく金持ちの子っていうイメージです。勉強も相当にでき、学年でも一、二を争うほどだったと思います」
北九州時代の孫正義は、大雨が降ると豚のウンコがプカプカ浮かぶ汚水が家の中に流れ込む劣悪な環境で育った鳥栖時代の孫正義とは、まるっきり別人である。

学生時代の孫正義氏に話が進みます。著者は、孫正義氏の小学校5・6年生の頃の担任と接触。

孫正義氏の小学校5・6年生の頃の担任の証言

「孫くんを担任していたのは、もう四十年以上も前のことです。その頃は安本くんと呼んでいましたがね。そんな遠い昔のことですが、なぜか彼のことはよく思い出すんですよ。
思い出すのは、そう、彼の目です。授業中、目をかっと見開いて、正面を見据えているんです。微動だにせずに。子ども離れしたすさまじい集中力でした。
しかも、その目が澄み切っていた。邪心というものがないんです。何かを必死で学びとろうと、熱い視線を教師に向けている。そんなことを感じることなど、長い教師生活でもめったにありません。
彼は何を見ていたんでしょうかね。教師の私なのか。それとも黒板の文字なのか。あるいはもっと奥にある何か別のものなのか。あの澄み切った目の奥に、何が映っていたのか、いまでも知りたくなるときがあるんです」
三上は担任中、孫が韓国籍だとはまったく知らなかったという。

当時は「安本正義」という日本名義の名前で暮らしており、それが本のタイトル「あんぽん」の元となっています。過酷な幼少期を経て、非常に大人びた小学生に育った孫正義氏。中学生時代の教師からは、「すぐリーダーになるタイプ」「おだやかで、怒ったことをみたことがない」と評価されていたようです。 ゲームばかりしていた私とは比べるべくも全くないのですが、それでもコンプレックスは人並みに持ち合わせており、心の闇と自分なりに対峙した時期でもありました。思春期にさしかかり、コンプレックスとして「在日韓国人であること」「名前を伏せて生きていること」に大いに自問自答していた孫正義氏の心情が、中学生時代の担任の証言でも明らかになります。

明朗な孫が内面に大きな悩みを抱えていたことを小野山は、孫が三年になったとき思いがけない形で知った。「突然、私の自宅に彼からの手紙が届いたんです。その手紙はもうなくしてしまいましたが、内容はよくおぼえています。『僕は将来、教師になりたいと思っています。でも、現実は厳しそうです。実は僕は韓国籍です。韓国籍では教師になれないと聞きました。僕はいま、そのことで悩んでいます』

在日韓国人として日本に暮らすこと、しかもこの時代に、ということの重圧や、差別を受け続けることへの苦しみ。丹念に描かれた各者へのインタビューや、孫正義氏との打ち合わせにより、深く根ざしていたことが明るみになるのです。

当時の友だちの証言により、カミングアウトの瞬間も描写されています。

「彼が韓国籍であることをはっきりカミングアウトしたのは三年の冬頃だったと思います。仲の良い友人たちと天神に遊びに行ったときです。回転焼き(大判焼き)の店に入って、おしゃべりをしていたんです。高校に行ったら、みんなバラバラになってしまうなあ、寂しいなあ、というような話をしていたとき、突然、安本くんが話を遮るようにして、ぽつりと漏らしたんです。『実は、僕は在日韓国人なんだ』って。

幼少期や青年期での大きなコンプレックスが、起業のテーマとなり、大きなエネルギーになる起業家がいます。孫正義氏も、このようなコンプレックスを抱えながら自問自動し、エネルギーに変換していた様子が本書では描かれています。

事業家になろうと決意し、アメリカ行きを決める高校生時代

孫正義氏の高校時代は、こんなエピソードからはじまります。久留米大附設高校に入学してから一ヶ月くらい経った頃、中学の頃の担任をレストランに呼び出します。(15歳の少年が、先生をレストランに呼びつけるのも珍しい(笑)と、しっかりこの孫正義氏らしい違和感にも指摘されています)

「実は僕は、いまから学習塾を経営したいと思っているんです。これが、僕が考えた塾のカリキュラムです。どう思いますか?」
孫はそう言って、レストランのテーブルの上に細かいカリキュラムが書かれた紙を広げた。
河東が驚いたのは、それだけではなかった。孫はこんなことまで言った。「僕はまだ高校生なので、経営の表に出ることはできません。そこで、先生に頼みがあります。先生、塾の責任者をやっていただけませんか?」
孫は要するに、自分がオーナーをやるから、元担任教師の河東に雇われ社長になってくれないか、とスカウトしにかかったのである。

実はこのエピソードは、孫正義氏のアメリカ行きのきっかけにもつながっています。

「私の父が吐血して入院した。家族の危機ですね。一歳年上の兄は高校を中退して、泣き暮らしている母を支えて、家計の収入を支えて、父の入院費、家計のサポートをする。母も一生懸命仕事する。
僕にとってはもう突然降って湧いたような家族の危機です。なんとしても這い上がらないといけない。どうやって這い上がるか。私は事業家になろうと、そのとき腹をくくったんです。一時的な解決策ではなくて、家族を支えられる事業を興すぞ。中学生のときに腹をくくりました……」
孫がアメリカに行くという決意をしたのは、このときだったという。(中略)孫が学習塾の経営を真剣に考えたのは、父の三憲が吐血して、大黒柱を失った孫家の家計は自分が支えなければならないという必死の思いからだった。

結果としては、中学の担任には断られてしまうのですが、もし中学の先生が孫正義氏の事業話しに乗っかっているとしたら、アメリカ行きはなかったのかもしれません。アメリカでは、孫正義氏は「差別に悩んでいる自分が解放される」「後にシャープに売る自動翻訳機のアイデアが具現化する」「結婚相手を見つける」等のビッグイベントが控えており、ひとつの人生の分岐点であった可能性があります。

もっとも、学習塾事業を先生に任せながら、アメリカに行っていた可能性もありますが。というのも、いずれにしても日本で暮らしていくにあたり、孫正義氏の夢がいくつも「韓国籍」であることを理由に阻まれるシーンが出てきたんですね。高校生といえば、もう自覚をしっかりもち、夢を追う立派なオトナ。その年代の頃に、在日であることへの差別や、実際の制度的なハードルを目の当たりにすることは、幼少期に単にアイデンティティを傷つけられるような差別とは、また苦しみが違うのかもしれません。

日本で重くのしかかる韓国籍のハードル

久留米大附設高校時代の孫の成績は、東大進学も狙えるほど優秀だった。
孫が後に語ったことによれば、そのコースを諦めたのは、たとえ東大に合格しても国籍の問題で官僚にもなれないと考えたからだという。国籍による差別は、年齢を重ねるほど孫の肩に重くのしかかってきた。
『僕は本当は日本の大学に進んで教員になりたかったんです。でも、韓国籍だと、それが無理だとわかりました。でも、たとえ韓国籍であっても、アメリカの大学を出れば、日本人は僕をもっと評価してくれるかもしれません』

アメリカ行きを打診する孫正義氏と、高校の担任の証言

「真剣な顔でそう言うのを聞いて、どんなに説得しても、この子をもう止めることはできない、と思いました。それでも私は『とりあえず、校長先生に相談してみるから』と言って引き留めたんですが、彼は『もう校長先生には話しておきました』と言うんです。
彼はことほどさようにやることが早いんです。というか、すでに本丸を攻めて、しかも落としていた(笑)」

この交渉フローを鑑みるに、すでに商売人としての才覚・センスを大いに感じさせる証言です。しかしセンスで突っ切っていたわけではなく、考えに考え、自問自答し、自らの出生や在日韓国人であること、その差別への葛藤、いろいろな思いが決断を生み、その解決策のためにまた深く考え続けて行動しているのがわかります。

単純な言い方をすると、「必死で生きていた」んだろうなぁと。ともすると、私たちはきっと孫正義氏のことをとんでもない天才だと見ていますし、アメリカ留学も余裕しゃくしゃくで羽ばたいていったんじゃないのか、と思っているところはありませんか。私がそうでした。確かに、この頃からも自覚的に自分の能力に対する自信が芽生えていたこともわかるし、父親のビジネス教育も大いにあったわけですが、まだ何ら成し遂げていなかった孫正義氏、全く何も満たされていなかったはずです。家族を巻き込み、反対必至の渡米、だけども、渾身の決断をせざるを得なかった。出生と環境が、孫正義氏を締め付け、決断をさせたのではなかろうか、決断をしなければいけなかったのではなかろうか、と思います。

アメリカ留学の決断が、大いなる志しが生まれる瞬間でもあります。

──アメリカに留学したのは、日本の大学を出てもしょうがないという思いもあったからじゃないですか。「久留米大附設を卒業して、東大に行って、何か事業を始めようと思ったこともあります。なぜなら、国籍の問題があるので、大企業は雇ってくれない。それならいっそ、日本よりずっと自由なアメリカでビジネスの種を見つけた方が手っ取り早いと思ったんです」──その頃に読んだ司馬?太郎の『竜馬がゆく』の影響も相当あったようですね。「ええ、すごく影響を受けました。龍馬も脱藩して江戸に出ましたよね。脱藩っていうのは、お家断絶になるような大きな罪ですよね。僕もアメリカに行ってしまえば、家族が絶滅してしまうかもしれないリスクもあった。だけど、もし僕が兄貴と同じように、目先だけの商売をしたら、とりあえずの危機から脱することはできても、多くの在日韓国人のプライドを取り戻し、天下国家のために役立つ事業がやれなくなる。あくまで夢のまた夢の話ですが、そういう志はあったんです」

アメリカ留学時代

幼少期を「豚のウンコ水」を飲みながら激臭の中で過ごし、青年期に差し掛かると差別に悩む孫正義氏。一念発起し、家族の反対を押し切ってたどり着いたアメリカ留学では、彼の人生の発射角度が一層ついたことが伺いしれます。

「最初に見たカリフォルニアの空のあまりの青さに(在日という悩みも)一瞬で吹っ飛びました。初めて見る黒人やメキシコ人がみんなへっちゃらな顔して歩いている。それまでくよくよ悩んでいた自分が急にバカらしく思えてきたんです」
一刻も早い大学進学を志望していた孫は大学入試検定試験を受験し、これに合格して、渡米から一年半後の七五年九月、ホーリー・ネームズ・カレッジ(現在はホーリー・ネームズ・ユニバーシティと改称)に入学した。

また、他の「孫正義・伝」ではなかなか触れられていない真実として、ここでの父・三憲氏の存在が上げられています。

アメリカ時代の孫が青春を思いっきり謳歌できたのは、国籍も人種も問題にしない自由な新天地に渡ってきたからだけではない。彼がアメリカで大きく羽ばたけたのは、肝臓病から復帰した父親・三憲からの潤沢な仕送りがあったからである。
父親からのこうした協力に関しては、すべての「孫正義伝」が無視している。「孫正義伝」のストーリーでは、孫が何から何まで独立独歩でやっていかなければならなかったのだろう。しかし、それではまるで一時代前の熱血少年マンガである。鳥栖で「焼肉仁」を営む孫の従兄弟の大竹仁鉄は言う。「正義は三憲さんに本当に可愛がられていました。アメリカに留学させ、十分な仕送りもしていた。正義は新聞配達をして大学に行ったわけじゃないんです。ばあさん(李元照)が正義を訪ねてアメリカに二度行ったのも、三憲さんが連れて行ったからです」

父・三憲氏は、上に記載の通り吐血して入院したのですが、これは風土病である寄生虫に体を蝕まれたためで、治療をして割りとすぐに治ったそうな。家族の危機が去ったあとは、また孫正義氏にアメリカ留学の仕送りをしていたわけですから、父親の支えがあってこそという話は、またここで判明している本書独特の真実ではないでしょうか。 (私はすっかり、アメリカ留学の段階で孫正義氏は独立をしているものだと思っていました。)

アメリカでは、今の妻と出会ったり、シャープに自動翻訳機を売るためのアイデアと出会い具現化するまでが描かれております。ここも独自の話が多く盛り込まれており、本書を手にとって頂きたいポイントでもあります。

孫正義氏の、父の話

孫正義氏を支えてきた父の安本三憲氏について、本書では1章まるほどを割いて丁寧に語られています。この父親がですね、また破天荒でして。

大邱郊外の「不老洞」に住む孫一族の末裔の孫太憲は、三憲には〝やり手〟という印象があった、正義がビジネスを成功させることができたのも、三憲の力添えがあったからではないか、と言った。
この推察は当たっている。
孫正義がカリフォルニア大学バークレー校経済学部の学生だった時代に開発した「音声付き多国語自動翻訳機」をシャープに開発者の正義を連れて売り込みに行ったのは、父親の三憲だった。

シャープに「音声付き多国語自動翻訳機」を販売した話は有名だと思いますが、父が絡んでいるとはまた独特の発見ではないでしょうか。

株取引に関しても独特の意見をもつ父。

「僕は株取引というものを、そもそも好かんのですよ。誰かが商売をしてそれで稼いだ、そのおこぼれをもらう。これは言ってみれば、乞食でしょうが。だから株で利益を出すというのは、僕のポリシーとは合わんのですよ。汗水垂らして稼いだ金じゃないですけんね。言ってみれば、不労所得ですよ。そういう金を手に入れても、最後はゼロにしてしまう。だから、あんまり性に合わん」

また、孫正義氏のビジネス観が少なからずこの父親から引き継いでいることがわかります。(この父親の話も、祖父から引き継いでいることが本書ではわかるのですが)こちらは孫正義氏の話。

「親父は、僕がちっちゃいときからいつも言っていました。正義、俺の姿は仮の姿だ、俺は家族を養うために仕方なしに商売の道に入ったけれど、おまえは天下国家といった次元でものを考えてほしいってね。だから、僕は小さいときから商売人になろうと思ったことは一瞬もないんですよ。
商売って要するに、できるだけ安く買って高く売ることですよね。でも事業家は違います。鉄道や道路、電力会社など天下国家の礎を作るのが、事業家です」

ちなみに孫正義氏の祖父も、破天荒

僕はおふくろが親父に一回だけ言うたの聞いたことがあるんです。『うちの父ちゃんは気位が高い。何の位か知っとか?
くそくらえっていう位だ』ってね」──くそくらえか(笑)。「もう、あんまり苦労させとるけですね。これは姉の友子に聞いたんですが、母が友子の次に清子を産んだとき、産んだばかりの母を殴ったそうです。『女なんて産んでも、まったく金を稼がん。なんで女ばっかり産むんや』と言ってね。お産を終えたばかりですよ、でも母は『次は必ず男ば産みますから、こらえてください』と詫びていたそうです」

これは父・三憲氏の話しなので、孫正義氏のおじいちゃん・おばあちゃんに当たる人物の話になります。これは時代が時代なのでしょうか。出産したばかりの女性をぶん殴るなどなかなかショッキングな話でありますが、本人の証言が得られているノンフィクションなんだそう。なお、著者の佐野氏は「孫正義は、個性的すぎる遺伝子が二代寄り集まってスパークした異能だった。その異能にドライブがかかったのが、十六歳からのアメリカ留学だった」とも評価しています。

孫正義氏、起業

起業以降の話は、広く伝わっているし本書以外にも詳しい本がたくさんあると思います。この記事では、主に幼少期・青年期の孫正義氏をクローズアップできたので満足なのですが、本書独特の視点で描かれるエピーソードをあといくつか紹介します。

「安本」ではなく「孫」で起業する

ここでは事業家になるんだと決心した時の思い、「多くの在日韓国人のプライドを取り戻し、天下国家のために役立つ事業ができるようにする」という気持ちが込められたシーンであり、反対する親戚一同の静止を振りきって、「孫」という名前で旗揚げをすることとなりました。

「孫という名前で、ユニソン・ワールドを始めました。そのとき、二つの選択肢があったわけです。孫の名前で会社を興すか、それとも元の安本にもう一回戻って、会社を興すのか。僕の親父も親戚のおじさん、おばさんも全部安本の名前で通していましたからね。だから、孫の苗字のままで日本で会社を興すのは、親戚の中では僕が第一号なわけですよ」──孫の苗字のままだと、韓国人だということがバレちゃいますからね。親戚は孫さんが安本という日本名を捨てたことに反対しませんでしたか。「猛反対でしたよ」(中略)「孫という本名を捨ててまで金を稼いでどうするんだ、と言いました。それがたとえ十倍難しい道であっても、俺はプライドの方を、人間としてのプライドの方を優先したいと、言いました」

日本ソフトバンクの設立が1981年。1990年、孫正義氏が日本人に帰化。1994年、ソフトバンクは上場し、1996年Yahoo!JAPAN設立。2001年にブロードバンド事業参入、2004年にダイエーホークス買収、2006年ボーダーフォンを買収と、ソフトバンクの成長につながっていきます。

いま振り返る、差別についての孫正義氏の回答

「差別はされました。でもそれはいつの時代でも、なにがしかはあったことですよ。日本の中にだって、ほんの百五十年前までは、士農工商っていう身分制度が社会構造の中に明確にあったじゃないですか。僕はやっぱり、生まれ育った国を愛し、その生まれ育った国に少しでも恩返ししたい、貢献したい。それが掛け値なしの純粋な気持ちです」

ソフトバンクの成長および孫正義氏の起業後の活躍は、別の本を当たってください。たくさんの記述が、もはや亡くなった人の伝記のような扱いで見つかります。しかし、出生にここまでアプローチし、事業家になるんだと腹をくくるまでに至った経緯を取り上げた本が他にありましたでしょうか。(否、無い)この記事ではボリュームたっぷりにご紹介することができたと思うのですが、それでも本書の魅力の5%くらいしか取り上げていないように思います。

韓国に住む親戚は、孫正義氏をどう見ているのか?父や祖父のさらなる話題やビジネス観は?結婚秘話は?より一層孫正義氏にアプローチし、その凄さに触れつつ、「あっこりゃ俺には無理だな」と腑に落ちる壮絶なエクスペリエンス。しかし、ここまで壮絶ではなくとも、自分の内面と向き合うことで得られるエネルギーがあることも知り、学生時代くらいに自分の心に閉じ込めたコンプレックスと、久しぶりに向き合ってもみようかなと思わせます。ぜひ、味わっていただきたいと思います。

今日の「THE READING EXPERIENCE」

本書の中のエクスペリエンスで一番ツボだったのは「ドブ川が、大雨が降るとあふれ出て、あっという間に部落全体が水没してしまう。その中に豚がぷかぷか浮かんだりして、ついでに豚のウンコまで浮かびあがる」でした。こんなエクスペリエンス、マジ勘弁。

もうひとつ、ありました。「突然、安本くんが話を遮るようにして、ぽつりと漏らしたんです。『実は、僕は在日韓国人なんだ』って。」これもツボでした。本書は、自分に役立てるものだとすると、コンプレックスとの対峙なんだろうと解釈をしています。中学生の頃、まだ何者でもなかった孫正義氏が、自分の出生を打ち明ける。相当な葛藤と戦いだったと思います。その後、自分の出生に関する差別体験が大きなエネルギーになるのだから、孫正義氏と比べるべくもない小さいものだとしても、心の対話、閉ざした自分との対峙をしてみようかなと思わせるものなのです。

あんぽん 孫正義伝

あんぽん 孫正義伝