THE READING EXPERIENCE

他人のビジネスを擬似体験できる本こそ至高と信じ、そのような本を発掘・紹介するブログです。

「30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由」エスグラント杉本 宏之氏/読書感想・書評

倒産の憂き目とは、どのような壮絶体験なのだろうか。

目の前に闇が張りついていた。2009年3月12日、深夜のことだ。(中略)この日、私が社長を務めるエスグラントコーポレーションは、東京地方裁判所に民事再生を申請した。負債総額191億円。私個人としても、上場を果たしたことで得た100億円近い個人資産をすべて失い、逆に13億円ほどの借金を抱えるところまで追い込まれていた。

本書「30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由」は、ワンルームマンションのイノベーションで市場を席巻した最年少上場男のエスグラント・杉本 宏之氏の自伝本。

30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由

30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由

 

当ブログでは、読書によって得られる他人の人生の疑似体験=「THE READING EXPERIENCE」の視点から、書籍をレビューしています。そのようなエクスペリエンスこそが、自己啓発本や教科書的なビジネス書よりも、得るものがあるのではなかろうかと。そんなアプローチをしながら、私の読書ライフをゆっくりアウトプットできればと。そんなブログです。

ところが、ここでとんでもないエクスペリエンスと出会ってしまったわけです。100億円単位の借金を背負ったことあります?債権者から怒鳴られたことあります?

私自身は零細企業の経営者で、なんかいろいろ聞く銀行の始末などを鑑みて「無借金経営」に徹しております。すなわちリスクを負っていないだけの小心者なので、では本のなかだけも疑似体験してみようと本書を手に取るや、ですよ。

栄光も苦悩も、自身の言葉で克明に綴られており、大変に興味深い読書体験となったわけです。本書は杉本氏の生い立ちから復活までを描いておりますが、「栄光」「地獄」にフォーカスして、ご紹介。

身を起こす杉本氏

いつも経営者の自伝本を読むときは、「なぜこの人は起業を決意したのか?」「いつ頃から才覚を現していたのか?」ということをチェックしています。元ペイパルのイーロン・マスク氏は12歳の時にはゲームを自作していたり、ドン・キホーテの安田氏は29歳まで麻雀をして暮らしていたり。そこにも、本に没入できるポイントが隠されていたりするものです。

ワンルームマンション販売会社に就職した私は、夢中で働いた。1年目には社内で20位だった営業成績も、3年目にはトップに立つことができた。22歳にして年収2000万円を稼ぎ、最年少の管理職に選ばれた。
9・11をきっかけに起業を決意する株式会社エスグラントコーポレーションを起業したのは、2001年12月のことだった。

育ちは「貧乏」「川崎のワルガキ」から、父との家庭内事件をもとに立身を決意。仕事バリバリ系の青年期から、起業を志すきっかけは9.11同時多発テロだったとのこと。22歳にして年収2000万円って。当時の不動産の活況は知らないし、本人も相当頑張ったと思うけど、センスもあったんだろうなー。

起業してすぐ、倒産の危機
会社はスタートを切ったものの、お世話になった会社から多数の社員を引き抜いたこともあり、業界団体からの誹謗中傷、妨害が凄まじかった。金融機関も一緒にエスグラントを業界から締め出そうという動きがあって、創業当初は、いきなり倒産寸前まで追い込まれた。
「社員を自分の家族だと思って本気でぶつかり合おう」喜びと責任を感じつつ、私は固く決意した。時には怒鳴り、檄を飛ばす私の思いに、社員たちも応えてくれた。「きっと、エスグラントは終わったと誰もが思っているだろう。だが、勝負はここからだ」社員が一丸となることで業績はV字を描くように回復し、上場という夢に向かって伸びていくことができたのだ。

社長としての幾多の経験は、25歳の頃の倒産の危機からはじまり、1期目の7億円から、2期目は21億円へ、3倍の売上げに到達した頃から研ぎ澄まされていくよう。

本を読み、人と会う

この後、最盛期に年商377億まで到達している男の源流として、さらには、この頃の努力がいわば下積み的に「才能を自覚する時期」として一役買っていたのではと印象深い箇所があります。

この時期、私は経営に関する本を手当たり次第に読み漁った。
週に3回はビジネスで自分よりもレベルが上だと思う業界キーパーソンや異業種の経営者に会うことを自分に課した。経営者にとって、人脈や人を見る目が不可欠であることを感じたからだ。

私は本は読むけど、いつの間にか人と会うことはそこまでやらなくなったな。。そもそもの視点と水準が違うので、比較にもなってはいないと思うけど。しかし、デキると思わせる社長はやっぱり「酒をのめ、本を読め」とか「人と会え」とかそういう事をいうので、ビジネス書でよく見かける”あっ同じこと言ってるのまた見かけた”現象として記憶していくのであります。

不動産業界では最短・最年少上場し、栄光へ。

勢いに乗ったエスグラントは、2004年6月、第3期目を売上高57億円、経常利益2億2000万円で終え、前期比2年連続で300%近い増収増益を達成した。
この時、私は28歳。エスグラントを起業して、まだ48カ月しか経っていなかった。エスグラントはワンルームマンションのデベロッパーとして、短期間で上場に漕ぎ着けることができた。(中略)28歳でエスグラントを上場した私は、史上最短にして、最年少社長としての上場記録を更新したのだ。

上場し、ここから周りの環境が激減していくこととなります。ここ、エクスペリエンス・ポイントです。自分の車に運転手が付く生活ですよ。秘書は付けるでしょうけど、運転手って今でもそうなのかな?まぁ会社によるのかな。いずれにしても28歳で運転手付きになるって相当な経験では。

会社と私を取り巻く状況は様変わりした。三菱銀行や大和証券など大手企業役員OBが監査役会に名を連ねるようになった。3カ月に1回の決算説明会は毎回50人 - 100人の株主、アナリスト、報道陣の前で発表をするようなった。自分で運転しての車通勤は危ないからと運転手が付き、秘書が付き、経済誌や業界紙の取材などでスケジュールが次々に埋まっていった。
業績も順調なようです。
エスグラントの業績は、右肩上がりで伸びていった。新規事業への先行投資を重ねながら、2006年12月には、中間期にして売上高202億円、経常利益17億円の上方修正を発表した。中間にして、前期決算額を早くも上回る数字を叩き出したのだ。時価総額は200億円に迫り、私個人の年収も、29歳にして3億円を超えた。

順調な業績と裏腹に、徐々に行動面での疑問、または攻め過ぎではないかという心配をさせる意思決定などが本書では目に付きはじめ、よくいえば「勢い」が、悪く言えば「違和感」を覚え始めるのがこの頃。

「俺が日本の不動産業を変えてやる」いつしか私は、大それた使命を自分に課し、さらなる高みを目指して突き進むようになっていく。150億円を超えた売上げも「300億円を目指せ」となり、300億円を達成すれば「次は600億円だ」と、目標とする金額が膨らんでいく。「一気に、東証一部まで駆け上がるぞ」私は社員に向けて、ことあるごとに口にするようになっていた。
上場を果たした2005年から2007年にかけて、まさにエスグラントは飛ぶ鳥を落とす勢いで業界を席巻したといっていいだろう。億の金を元手に数十億円の物件を動かす面白さ私も勢いに乗っていた。テレビや雑誌の取材、講演依頼にも毎週のように応じていた。クリエティブ・ディレクターのNIGOさんの要請で、仕事に関係のないファッション誌のモデルを務めた。

でも、まあまあ。この辺までは分からないでもない、というか。

凄まじい忘年会に、派手な生活
また、エスグラントの忘年会では、麻布十番のクラブを貸し切りにして500人以上を集め、当時人気絶頂の湘南乃風に来てもらったりもした。翌年のゲストは氣志團だった。

従業員も、最高のステージ・最高のシチュエーションで表彰されることが最大のモチベーションにもなっていたよう。ド派手な忘年会で勝利の酒を味わい、踊り、会社の永久の成長を信じる。とても象徴的なイベントだったようです。この忘年会は、後程、凄まじい地獄も描かれるので、対比すると痺れます。本書の面白さが凝縮しています。

ロリンザーフルカスタムのベンツSLに乗って出社して、一着50万円以上するブリオーニのスーツに身を固め、時計はデイトナのアンティークからダイヤだらけのカルティエサントスまで幅広く所有した。プライベートのファッションも、クロムハーツ、ゴローズなどのアクセサリーから、ディオール、ドルガバ、グッチまで買いまくった。高級セレクトショップの「リステア」で、毎週何十万円と洋服を買うような生活だった。
上場直後は、毎日のように上場記念パーティーと称して飲み歩いた。ロマネコンティを一気飲みして「ワインの神を冒涜するな!」と先輩に激怒されたこともある。そればかりか、ペトリュスの82年を紙コップで開けるなど、傍若無人な行ないを重ねていた。

何のために経営をしているのか、結局金でしょ、といわれても仕方のない派手な生活。有頂天なのか、または散財し飲み歩かなければ精神が保てないほど、仕事自体は潜在的にストレスのあるものだったのか。とにもかくにも、羨望の眼差しで見られるべき羨ましい日々でもある。我が世の春を謳歌し、全能感に包まれ、尊敬を集める日々は、さぞかし貴重な経験だったのでは、とも思うわけです。

2007年6月期、エスグラントは売上高377億円(前期比199%)、経常利益23億8000万円(前期比201%)という過去最高の決算となった。30歳になった私の目はエスグラントの東証二部、そして一部への上場、東南アジア進出を見据えていた。

さて、ここまでで栄光パート。上場し、なおも業績絶好調な中、高級ブランド尽くし、飲み会尽くし。よくここまで書いてくれたな、と思うほど描かれており、続きは、本書を手にとってその全貌をぜひご覧いただきたいところ。

地獄の始まり。サブプライム問題

「パーティーの音楽が、いつか止むことはわかっている。そして、止んだ瞬間に踊っている者に待ち受ける運命も。しかし、音楽が鳴っている間は、我々はただ踊るしかないのだ」

私、その時学生でしたので、あまりリーマン・ショックまわりの知識に詳しくなくて。何が何故起きたのかはぼんやりと理解しているけど、日を追って当時を振り返ることはありませんでした。

で、勘違いしてたのが、リーマン・ショックってある日突然起こったことだと思ってたんですよね。実際は異なっていて。サブプライム危機が1年位ずーっと起きてて、ある日突然全てが壊れたのではなく、1年かけて実はじわじわと全部壊れてた感じ。真綿で首を絞められるような感覚だったでしょう。

いやマジ地獄のはじまりですね。

マーケットの活況とともに徐々にアメリカの長期金利は引き上げられ、2006年頃から、住宅価格の上昇に歯止めがかかり始める。無理なローンを組んだ低所得者層は次第に返済が滞るようになり、2007年4月には、アメリカのサブプライムローン業界2位の座にあったニューセンチュリーフィナンシャル社が経営破綻する事態を招いていた。

サブプライム危機の先頭バッターはアメリカ・ニューセンチュリーフィナンシャル社の経営破綻だったようですが、日本でのリアクションはこんな感じ。

「サブプライムは、日本にどこまで影響をおよぼすと思う?」私の質問に、前田は少し困った表情になった。「うーん。相当の影響があることは間違いないでしょうけど。予測は難しいですね」「ところがだ、ロイターのニュースによると、FRBのバーナンキ議長は、サブプライム問題は金融市場にそれほどの影響は与えないだろうと議会で発言したそうだ」「本当にそうでなんでしょうか?」

次第に広がっていく中、いずれ不動産価格は反発するだろうと睨み、物件の仕入れを欠かさなかったエスグラント。例によって私の小さな経験で比較をすると、下がり続ける株を切れずに大損失を出したことはありますが、いずれ下げ止めるであろうという判断、当時は出来なかったのは致し方無いことなのだろうか。というかFRBのバーナンキ議長もわかっていなかったようですからね。

サブプライム問題の影響で、8月頃からヨーロッパなどで不穏な波が起き始めていた。(中略)日本では、8月17日には日経平均株価が年初来安値を更新して1万5000円台に落ち込んだ。この段階ではまだ公表されていなかったが、日本の多くの銀行も、サブプライムローンが証券化されたデリバティブ(金融派生商品)への投資で、巨額の損失を出し始めていたのである。
「これはまずいぞ」融資を渋る銀行担当者の表情から、私は直感的な恐怖を感じ取っていた。
ついに破綻のはじまり
それどころか、不動産価格の下落が始まれば、目一杯レバレッジを効かせて保有している不動産の担保価値も下がり、一気に経営破綻の懸念まで生じてくる。低頭して社長室から出ていく銀行担当者を見送りながら、私は自分の背筋に冷たいものが流れるのを感じていた。
マーケットが上昇している時は、レバレッジは大きな武器になる。しかし、下降局面に入ればレバレッジの刃が自分に向けられることになる。まさしく、レバレッジは諸刃の剣なのだ。

この時の心情は全部引用したいくらい、リアルな状態が日に日に描かれています。

私も、円ドル80円から120円にかけての時代、クレジットカードで仕入れた海外ブランド品の販売をしていたことはありますが、マーケットの動きは読めない。読まなきゃいけないし、多少の想定外と言われる変動でも耐えられるように設計をしないといけない、といわれればそれまで。私はそのビジネスは売却しました。円ドル110円くらいの時に売ったから、ババ抜きには一応勝ったし、銀行取引もなかったから良かった。とはいえ、あれだけでもなかなかの地獄のものだし、業績が伸びている(はず)なのにお金が増えてるのかなんなのかもわからなかったことがあります。

杉本氏には、私とは規模も水準も違う利害関係者がいて、大切な仲間もたくさんいたことと想いますが、読んでるだけでもハードな日々です。

いよいよ窮地に
銀行の締めつけは、私の想像を超えていた。ワンルームマンションを建設するための用地取得にも、新規の融資はまったく受けられない。それどころか貸し剥がしに遭う始末だった。エスグラントの経営は一気に崖っぷちに追い込まれていった。
サブプライム問題の深刻化からわずか3カ月。エスグラントはいよいよ窮地へと追い込まれた。信じられないスピードだったが、マンション以外の物件がぴくりとも動かなくなった。エスグラントのために、株を担保にレバレッジをかけて開発に張っていた個人の資金繰りも立ち行かなくなった。
離婚も経験
私が妻を怒鳴るのは、この夜だけのことではなかった。私自身、まだまだ精神的に未熟だった。妻の心配をシャットアウトして「仕事のことで俺に話しかけないでくれ」と拒絶することしかできなかったのは、今ではとても後悔している。
会社が坂道を転げ落ちるような苦しさに直面していた私にとって、離婚は少なからず衝撃的な出来事だった。ことに、まだ2歳のかわいい盛りだった娘との別れは辛かった。家庭という歯止めを失って、酒量もますます増えていった。この離婚を境に、私はさらなる奈落の底へと落ちていくことになる。

いや、娘との別れはつらすぎるな・・・いま、会わせてもらってるんでしょうか。ビジネス的な面とかを考慮し、例えば嫁に負債を背負わせないために離婚のような法的判断をすること、これは経営者なら万一に備えて考えたことはなかろうかと。さらに甘かったのは、そういう判断をしてもきっと変わらず暮らしていくんじゃないかともどこか妄想内では片付いていたわけで。これを見ると、決してそうでもないよう。特段、娘と会えない、これはちょっと私も想像できないというか、しんどいですね。「そのような事が起きないよう、がんばろう」そう思い直した一文でもあります。とんでもないエクスペリエンスですね。

リーマン・ショックの発生

2008年9月15日。アメリカの投資銀行、リーマン・ブラザーズが破綻した。サブプライム問題の混迷も、日本には限定的な影響に留まるのではないか。低迷を始めていたマンション価格も、再び上昇に転じるに違いない。甘い思惑はすべてが幻想であったことに、ようやくあらゆる人が気づいた
格闘技の試合で、頭に強い打撃を受けてダウンすると、その前後の記憶が抜け落ちることがある。つまり失神KOだ。リーマン・ショックの衝撃は、私の人生にとってまさに強烈なカウンターの一撃になったのだろう。2008年9月頃からおよそ半年余りの間、私の記憶はやや断片的になっている。

リーマン・ショックの前に、エスグラントは身売りし、ユニマットグループとして経営を建て直していたところ。その後にリーマン・ショックでとどめを刺された形で、一気に破綻の道を進んでいくわけです。

私にも一応、資金繰りに窮して人を当たったり、それでも給与は絶対払わなくてはと財布をすっからかんにしたこともありますが、そんな想い出と重ねて読むにつれ、吐き気されしてくるパートです。なんでこんな想いをしながら本を読まなくっちゃいけないんでしょうか。特に栄光パートとの比較をしちゃうとね。いやぁ、素晴らしい読書体験です。

地獄の日々

エスグラントの経営は、みるみるうちにどん底へと転がり落ちた。株価は断崖絶壁から突き落とされたかのような状況で、1年前の15分の1に落ち込んでいた。株を担保に借りた個人資金も返済が滞るようになっていた。会社のキャッシュフロー悪化は深刻で、銀行への返済が滞るばかりでなく、自社物件のマンションを建設してくれたゼネコンへの支払いもできなくなり、200万円ほどのパンフレットの印刷費さえ払えなくなっていった。
9月の月末を超えて10月になると、エスグラントの社長室には督促や返済のリスケジュールの打ち合わせに債権者が押し寄せるようになった。まさに、針のむしろに叩きつけられるような日々の始まりだ。

先ほどの「離婚」もそうとうな地獄でしょうけども。支払いの督促に、返済リスケジュールの打ち合わせなんてマジ地獄なんですが、これがまだまだ地獄の始まりで、底が見えないのがまた当時の金融情勢の底なし加減を表していますでしょうか。

「杉本君は払う払うと言うばかりだが、実際に金を見ないともう信用はできない」「いや、お支払いできる当てはあるんです。何とかもう少しお待ちいただけないでしょうか」「いや、待てない。このままお前の会社が倒産したら、うちも破産するしかない。そうなったら、お前を殺して、俺も死ぬ」

ここで定番アイテム「ガラスの灰皿」が出てきますが、ここでは自分の側にさりげなく寄せることで、回避。よかった。結局その後、別の人に「ガラスの灰皿」投げられるんですけどね。。結局、投げつけられるんかいっみたいな。本書では、もうそんな人達が何人でてくるんですかってくらい、必至に資金回収に望む人物や、死に体の会社から少しでも旨味を吸い取ろうと近寄ってくるハゲタカ・ヤクザまで、魑魅魍魎な様相。本を見るとまだこの辺で半分過ぎたくらいですから、えっ、どんだけ地獄続くんですか、と冷や汗も。

役員を切り刻んでいく
私は前田と資金繰りについての話し合いをしたうえで、エスグラントとグループ会社の役員たちを招集した。「エスグラントはもう風前の灯火だ。グループ会社を売却しようと思う」

ここで、創業メンバーの役員までを切り刻んでいきます。ここで切られる役員は、その後の動向で言えばそのほうがよかったわけで、いろいろと案じます。

地獄の忘年会
仲村は泥酔したまま私から渡された表彰状をくしゃくしゃに丸めてスピーチ中の社員に投げつけた。すると、酔いの回った社員が次々に表彰状を丸めて床に投げつけている。「おい、いい加減にしろ」立ち上がりかけた私に仲村は言った。「いったい、俺たちはどうなるんですか?」私は10年以上寝食をともにしてきた仲村の問いに答えられなかった。

栄光パートでは、麻布十番貸し切りで豪華なゲスト、権威ある表彰式だった忘年会。渋谷の安い箱を借りて実施した忘年会では、「社員が次々に表彰状を丸めて床に投げつけている」なんて、これヤバすぎませんか。

いたたまれなくて、その場にいれないと思うのですが。

深夜のシャワールームで手のひらに抜け落ちた髪の毛を見ていると、腹の底から、たとえようもない悔しさが湧き上がる。「いったい、なぜこうなったんだ。どこで歯車が狂ったんだ……」悲鳴を挙げ始めた自らの肉体を鏡に映し「いっそ死んだほうがましだ」とまで考えた。シャワールームを出ると、扉の脇に白いタイル張りの壁が目についた。「くそお」と呻くような声を漏らしながら、タイルの壁に自分の拳をぶち当てる。ゴッと鈍い音がして拳が裂けた。真っ白なタイルに鮮血の染みができ、その赤さがまた自分のなかの悔しさを沸騰させる。

ストレスで髪の毛が抜けた記憶はないな・・・私もまだまだあまちゃんなのでしょうか。シャワールームでむせび泣いたことも無いし、タイル張りに殴りかかって白いタオルを鮮血で染めたこともないな。

人が本当に追い込まれて、一人で抱えているとき、どうなるのか。自分の光栄だけを残す晩年の自伝書ではありえない部分まで照らされており、どのシーンも、移動中、風呂、睡眠前と私の脳裏に思い出されるのです。

民事再生

そして民事再生を申請。会社を民事再生したことはありますか?当日どんな感じになるのか、知ってますか?場合によりけりとは想いますが、こんな感じだそうです。

帰り着いた会社がやけに静かだったことも覚えている。午後になってエスグラントが民事再生を申請したニュースが流れると、昨日まではひっきりなしに鳴っていた債権者からの電話がぱたりと止んだ。まさに「会社が死んだ」ことを実感させられる、凪のような静かさだった。

まだ会社の再起の可能性が1%でもあるならと。誠実に全てを片付けようと。最後は銀行にとどめを刺され、民事再生を選択する杉本氏。

安堵。いや、そうではない。肉体から大切な何かが抜け落ちて、底抜けの闇のなかでじっとたたずんでいるような気分だった。
杉本氏本人は、自己破産
私個人の民事再生に対して、債権者は納得してくれなかった。「この額は返せないでしょ。さっさと、破産してくれ」「いや、民事再生なんて生ぬるいことでは役員会を説得できない」「自己破産して、社会的制裁を受けてくれ」ある債権者は言った。「なんなら、杉本さんが死んでくれたら話は早いんですが」

民事再生はおろか、自己破産エクスペリエンスなんて、したことないのでわからないのですが、債権者の罵声はこのようなバリエーションになってくるのですね。

さらには、きっと味方と思っていた弁護士からも突きつけられる辛辣なメッセージ、上から目線、敵視、蔑む目線というのは、またしんどかったのではなかろうかと。というか当番弁護士で自己破産する人は、こんな感じになっちゃうんですね。(当番弁護士以外で自己破産というのもなかろうが。。)

「杉本さん、あなたは犯罪者も同然なんですよ。会社のほうでも株主や債権者、そしてお客様、どれだけたくさんの人に迷惑をかけたと思っているんですか。そして、今度は個人で自己破産だ。お金を貸してくれた人たちは、あなたに騙されたようなものですよ」

栄光と地獄を刮目し、ビジネスの活力にしよう

杉本氏の栄光と地獄を、一面しか切り取っていないので、彼の努力や誠実さ、著名な経営者から可愛がられた人柄など、十分に描ききれていません。しかし、たった1620円の本書でジェットコースターのようなビジネス体験を得ることができるのだから、なんともコストパフォーマンの良いこと。

どんよりと暗い部分の多い描写を見ながら、そしてちゃっかり疑似体験を楽しみながらも、自分の中でなにかストンと落ちて、ああビジネス頑張ろうかな。そう思わせてくれます。ここまで記事を読んでいただいた方がいましたら、「THE READING EXPERIENCE」の視点が広まるといいなと思っています。

「30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由」というタイトルにあるように、その理由についてはぜひ本書を手にとってください。

30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由

30歳で400億円の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由

 

 

「パーキンソン病の告白」ダイヤモンドダイニング松村厚久社長を描いた「熱狂宣言」/小松成美/書評、読書感想

ダイヤモンドダイニング、そしての創業社長・松村厚久氏とは

あのお店、ダイヤモンドダイニングだったんだ!?と思うレストラン、気づけばいくつもありました。外食業界には疎く、大変恥ずかしいことにこの会社の存在を本書で知ることとなりました。それも、とても強烈な方法で。本書は、「若年性パーキンソン病」を患いながらも決してあきらめない熱狂の最中、会社を上場させるに至った松村厚久氏を、3年かけて取材しまとめあげたノンフィクション。

熱狂宣言

熱狂宣言

 

 当ブログでは、「自己啓発本でもなく、教科書的でもない、他人の人生・ビジネスの疑似体験ができる本こそ、最高のビジネス書」と定義し、そのような本ばかりを読む私(BOOKUMA)による本の紹介を目指しておりますが、この本を取り上げぬわけにはいきません。

松村厚久氏の異端児っぷり、具体的な戦略や日夜の苦労とダイヤモンドダイニングの成長を描きながら、並行して描かれる病魔に苦しむ彼、誰にも告白できずに病気と戦う松村厚久氏が克明に描かれています。会社が波に乗った時の勢いは臨場感たっぷり、ベンチャー本はこうでなくちゃと思うと同時に、キリキリと心に痛む病気の描写、こんな熱量の仕事を病魔と闘いながら、誰にも告白できずに戦っていなのかと驚きも隠せない「ノンフィクション」に、読み始めたら読破間違いなしの良書です。

フード界のファンタジスタ

外食産業界における松村厚久の評判は、それは凄まじい。「フード界のファンタジスタ」「食とエンターテイメントを融合させた天才」「レストラン業界のタブーに挑み勝利した男」と絶賛される一方、特異な経営方針や出店計画の度重なる見直し、他にはない個性的なコンセプト主義を評して「異端児」「無計画経営者」「目立ちたがり屋」「ビッグマウス」と揶揄されることも少なくなかった。

多くの経営者とも交流が深く、愛されている松村氏、知らなかった自分の不勉強をが身にしみます。「100店舗100業態」を掲げ、病魔と闘いながら達成。その後、若年性パーキンソン病を自らの社員に告白し、小松氏の取材を経て本書の上梓に至ります。この「100店舗100業態」がとんでもなく凄いことなんだということは、本書のわかりやすい説明もあり、理解できました。

「100店舗100業態」とは

「業態とは、その店のコンセプト・スタイルのことです。和食なのか、洋食なのか、どんな内装で、どんなメニューなのか、それを『その店の業態』と呼びます。100個の違う店を作るという目標と達成がなぜ大きな注目を集めたのかと言えば、外食が店舗数を増やしていく通常のやり方とは真逆のものだったからですね。普通、レストランや居酒屋を運営する会社は売れ筋の店を開発し、それを増やしていきます。チェーン展開して同じ店を増やしていくわけです」
100店舗を作っている会社は多々あるが、一店舗一店舗すべて違う店で作った会社は1社もない。「なぜならば、面倒で、非効率で、人手も掛かり、コストもリスクも大きくなるからですよ。周りの人たちは『なんでこんな無駄なことをするんだ。流行っている店があれば、それをいくつも作れば簡単なのに』と言いましたよ。チェーン店なら内装工事も画一化でき、一店舗ごとにデザイナーを使う必要はありません。サービスやメニューも、使い回せば良いので、開発に掛ける時間も人も必要ありません。しかし、一店舗ずつ違えば、すべてに時間と人とお金を掛けなければなりません」

レジェンド級の偉業を成した過程にある、ベンチャー的な苦しみと喜び、松村氏の天才的な着想に熱意。ビジネス書としても学ぶ箇所が大変に多く、ひたすら本にマーカーを引くばかりでした。

圧倒的な成果を産んできたビジネスの進め方

ビジネスにおいて、自らがプロを自認する業務があると思いますが、研究をかかさずに自己をブラッシュアップしていますか。インプットしていますか。とても基本的なことだと思いますし、ともするとこの作業が楽しくて仕方がない人が「業界の天才」になっていくのかもしれません。

クリエイティブは目から

「道を歩いている時も『看板のロゴデザインに注意してください、他の店を訪れたら内装やメニュー、サービスを胸に刻んでください』と言います。その他、ミーティングの度に『映画をたくさん観てください、本を読んでください、そうできないなら、本屋やレンタルビデオ店でタイトルだけでもたくさん見てください』と言っていました。インプットした情報こそが新たな店のイメージやストーリーを作るための材料になるはずですから、と言って」

情報収集を欠かさない、そんな単純なことに思えますが、その質、量へのコミットは意外と誰もが出来ているわけではないのかもしれません。外食業界のみならず、金言になりますね。

社長は常々『クリエイティブは目から』を力説し、イメージをストックするために何十何百の店を訪れることを実践していました」

まるでスティーブ・ジョブズ

また取締役になる河内氏からは、松村氏においてこのようなレビューもあります。

「社長の特異性、それは、理系と文系と芸術系のハイブリッドであるということです。①数字に強い。②国語力がある(店名等を考える語彙のストックと良し悪しの判断)。③美的センス(ロゴデザインや、インテリアデザインのイメージ判断が際立っている)。外食経営者には、①のタイプは多く見られますが、②も、さらには③までも、三つが揃っている人は他に見たことがありません。元来の読書好き、活字好き、映画好きが店舗開発に役立っているのは間違いありません。そして、バブル時代に輝かしい内装のレストランやクラブを巡っていた、その経験からの感性の研鑽と蓄積。そして最後に『男は理系!』と息子に言い続けた社長のお父さんの教えで、大学を理工学部にし、学んだことも役立っているような気がします」

この「理系と文系の交差点にいる人間」という表現は、スティーブ・ジョブズがそうであったと自伝書で語られており、才能に嫉妬したもの。それがまさか、この本の中でもまた同じ表現に出会うとは。

基本的に人に任せるスタイルの松村氏の経営スタイルは、こんなところからも汲み取れます。ああ、私はこんなスタイル出来ていないな、もっと縛ってしまって社員の才能もやる気も引き出せていないかもしれない。

「パソコンを睨んで仕事をしていると、社長が私の後ろにスーッと来て、立っていました。その気配に驚き、パッと社長の顔を見ると、『どう?燃えてる?燃えてる?』とだけ言うんです。余計なことは一言も言わない。未熟でミスも多かった私の仕事に、注文も文句もありません。ただ、『燃えてる?』とだけ。どんなに寝不足でも、疲れていても、社長のその一言を聞くと、腹に力が入りました。私も余計なことは言わず『はい、燃えています』と答えていました」

流行るお店の発想法

外食業界に携わるものとしては、こんな一言も金言になるのでは。いや、外食業界のみならず、あらゆるビジネス創造におけるヒントになるかもしれない。先に安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生の記事をアップしていましたが、こちらの安田社長も、業界の常識を破った「逆張り意思決定」をしていたっけ。

「私は、その頃、オペレーション、流通から店を作るとつまらなくなってしまう、と考えていました。素晴らしいアイディアがあってそれを実践したいけれど、オペレーションに合わない、とか、こういうメニューを出したいけれど流通に合わない、とか、そんなふうに縛られたら、瞬く間に店がつまらなくなるんです。ダイヤモンドダイニングは、そうした発想を取り払いました。オペレーションと流通は全く考えなくて良い、と言い切りました。なので、焼酎を300種置いたり、銘柄豚を10種類置いたり、ベルギービールを70種類置いたりできたんです。コストが掛かったり、オペレーションに負担が掛かったり、在庫管理や運搬が面倒だったりするからと止めてしまえば、そうした店は永遠にできません。私は逆転の発想を社員に伝えました。『作った後に、オペレーション、流通を整えれば良いんだよ』と」

例えば、ということで六本木「わらやき屋」の事例もでてきます。ここも、ダイヤモンドダイニングとは知らずに何度か利用した店舗です。

六本木に「わらやき屋」という店を作るのである。
この店の一番の売りは、土佐料理の王道である「かつをのたたき」と藁焼きのパフォーマンスだ。本場・高知にもない、日本一と言っても過言ではない巨大な藁焼き場を店内に作り、藁に火をつけ、ダイナミックに火柱をあげ鰹を焼くという、昔ながらの調理法を客に見せた。

外食産業へ関心をもったきっかけが、サイゼリアだった

さて、なぜ松村氏が外食産業を志し、また情熱を注ぐことができたのか。本書にはその分析にもしっかりと分量が割かれており、見応え満点ですが、少し見てみると意外にも「サイゼリア」が出てきます。

100店舗100業態を達成し、外食産業の台風の目となった松村厚久は、どこからやってきたのか。なぜ、外食産業を生業とし、唯一無二のレストランを作ることを使命と言ってのけ、それをがむしゃらに成し遂げたのか。
私が松村にそう聞くと、彼はきっぱりと言った。「私の外食の原点。それはサイゼリヤです!
そして、外食の世界で最初に尊敬し、目指したのは当時のサイゼリヤの社長で今は会長の正垣泰彦さんでした」
サイゼリヤから始まったレストランへの憧れは、松村に長いワインディングロードを歩ませることになる。「本当に人生、何が起こるか分かりません。もしサイゼリヤに出会っていなければ、ダイヤモンドダイニングも、100店舗100業態もあり得なかったと思います」

才能が開花する出会いには嫉妬してしまいます。

松村氏を襲う苦悩、悪夢

ノンフィクションのビジネス書の醍醐味は、他人の「苦労」も疑似体験できることですよね。吐き気のするような絶望的キャッシュフロー、全身を焦がすような資金繰りなんて、本の中だけにして~って思ってしまう。しかし絶望の淵から挽回する様子を見ては、勇気が与えられるものです。

決して順調ではなかったダイヤモンドダイニングの創業期からの「苦労」をいくつかピックアップします。

スタッフとの衝突や人間の引き起こす問題

オープン直前、事件が起こる。シェフが失踪したのだ。久保がその顛末を語る。「社長と社長が見込んだシェフとが必死でメニューを開発し、実際に作り、ようやく完成したと思ったグランドオープン2週間前、そのシェフが突然『できない』と言い残し消えてしまうんです。」
松村の100店舗100業態への挑戦は、変わらず続いていた。ところが、この夢に向かう最中、社内に軋轢が生まれるという思わぬ事態が起こる。
松村と河内が街を歩けば新しい店ができる。あまりの忙しさに河内の仕事が社内で疎まれるまでになっていた。

私も経営者の端くれですが、人の問題がもういやだ。こんなことが起きるって考えただけでも、新しいビジネスを興す気が失せますね。でもこれがTHE 経営って感じですかね。リアルですね。

銀行とのバトル、キャッシュフロー

松村を待っていたのは、貸し付け停止の宣告。松村は銀行の応接室で交わされたこの時の会話を今も一言一句忘れない。「社長、すみません」「何が、すみません、ですか?」「実は、ダイヤモンドダイニングさんの企業評価がAからBに落ちまして……、残念ですが融資はできなくなりました」

銀行との取引も、出来ればやりたくないのだが、ダイヤモンドダイニングも銀行とのやり取りには辛酸を嘗めさせられていたよう。その後、資金調達に成功し、銀行に一括返済を叩きつける様も描かれており、気分もスッキリしました。

給与に関する立派な信念も描かれています。

「どんなことがあっても、従業員の給料を遅らせるわけにはいきません。当時、経理は私の仕事でした。給料日の前日、すべての店を回ってレジや金庫にある現金を全部集めました。札だけじゃなく小銭までも。最後は私の財布と妻の財布のお金を取り出します。従業員の口座に給料を振り込むと、一銭も残らない月が一年のうちに何ヶ月もありました」

東日本大震災

東日本大震災では大ダメージを蒙ります。まだこの時、誰にも病気を明かしていない段階ですから、人知れず時を刻むタイムリミットの中、「店舗の撤退」の意思決定をする様は、心臓が握りつぶされそうな感覚にもなります。

震災の影響は数年にわたって続いた。ダイヤモンドダイニングは、2011年から2013年の間に、22店舗の不採算店舗を閉めることになり、最大109店舗にまで増えていた店は、75店舗にまで減っていた。
松村はこの時期こそが、ダイヤモンドダイニングにとってのターニングポイントだと感じている。「今後、ダイヤモンドダイニングが50年、100年と続いていく中で、この試練の時期が、クローズアップされることは間違いないと思います。事業というものの脆さを教えられ、逆風を乗り越えるための胆力と、今に見ていろという気勢を自らに与えたのが、この時期でした」

若年性パーキンソン病の告白

さて本書では、教科書では得られないリアルな経営の実態を垣間見、トンデモ戦略にビジネスアイデアのヒントさえ得られるなか、それらが若年性パーキンソン病との戦いの中にあった、という壮絶な時系列になるわけです。

「私は……若年性パーキンソン病です」
カウンターに置かれた手を拳にしてぎゅっと握ると、声が震え出した。「告知を受けてから8年ほどになります。ご存じの通り、パーキンソン病は原因不明の難病で、完治のための治療法も、現在のところはありません」
表情がわずかに歪むと、両の瞳から涙が溢れ出した。思わず目の前のおしぼりを取って涙を拭い、目の縁を赤くしてこちらを見たその人は、静かに深く頭を下げた。「これまで、ずっと病気のことを黙っていてすみませんでした。何度も言おうと思いましたが、社員にも、友達にも話していないことを告げて、ご迷惑を掛けては……と、そう思っていました」

隠し通せないほど症状が進行していた

病院の診断によると、5年の猶予の後に症状が如実に現れるとのこと。実際には6年目から8年目にかけて症状が進行し、株主にも取引先にも「おたくの社長は酔っ払っているのか?」等と責められる度、秘書や側近のスタッフがフォローをしていたという。想像を絶するシチュエーションに、読後感を言い当てる表現がなかなか見つからないものです。

「私が病気を公言し認めれば、周囲には心配と負担を掛けますし、また症状についての説明を、常に求められると思いました。ところが、この病気を解説し、症状を説明するのは本当に難しいんです。薬が作用して体調が良い時もありますし、ジスキネジアといって自分自身ではどうすることもできないほど震えや不規則な動きが出て、歩くことも立っていることも、座っていることも難しいことがあります」
「パーキンソン病は、身体の異常が一目で分かります。話し方も変わり、人相も違って見えます。人はこうした変化を、脳にも起こっていると考えるんですよ。脳の機能は何ひとつ失われていません。『オフ』と言って、多動の後に身体が人形のようになって動かなくなることがありますが、そんな時でさえ、思考は完璧に働いています。むしろ、集中力は増しているかもしれません」

自問自答

「……絶望ですか。そうですね、苦悩はありますが、絶望はなかったですよ」
彼は自らの心の動きを繊細に覚えている。「もちろん、酷い落ち込みはありました。この病気の残酷さは、見た目の酷さです。じっとしていることができず、さらに反動で硬直した体では寝返りを打つこともままならない。日常生活を送るだけで背中や腰には激痛が走るようになります。だんだん痛みにも慣れていきますが、手足が揺れ続けている時間、その反対に動けない時間、繰り返し自分に訪れた運命を思うんですよ。なぜ、自分なんだ、と……。なぜ自分がこの病気に選ばれてしまったのか、と……」

支えてきた社員のリアクション

本の出版に際し、幻冬舎の見城徹が立ち会い、一連のカミングアウトを受けた際には、同席している社員へのリアクションも描かれています。私的にはこの辺が、胸にこう、ぐっときたところです。

「君たち、それで大丈夫だったのか?」
河内が短く答える。「病名を聞いたのは今日が初めてですが……はい、大丈夫でした。病状が進んでも松村は松村のままでしたので」
堀も、黙ったまま大きく頷いている。
見城は、声を震わせていた。「何も聞かず黙ったまま、変わっていく松村を支えてきたのか……」
頷く二人を見ていた松村は、震える手で目頭を押さえた。「私以上に、社員が大変な思いをしてきました。でも、一度も不平不満を言わず、仕事を続けてくれました」「松村、素晴らしい社員に囲まれているな。良い会社を作ったな」

本書では上記の部分は冒頭に出てきます。「自分は、そんないい会社は作れていないな。」と、社員の信を集め支えを得る松村氏の人格を知り、同時に、少しでもヒントを貰い自己に役立てられる部分はないかと、本書を読み進めるエンジンにもなる箇所でした。

診断されたことをきっかけに「100店舗100業態」を掲げる

さて、才能に溢れる松村氏が、なぜ「100店舗100業態」を掲げるに至ったのか。病気があったから今日の成功があったのでは、とも、少し思わせる部分があります。

「慈恵医大で医師の診断結果を聞きながら思っていたことは、5年という時間でした。5年は進行を遅らせることも、また薬の効果を期待することもできる。説明に耳を傾けながら、自分にはまだ5年もの時間があるじゃないか、と考えたんです。末期癌のように数ヶ月単位で体の状況が深刻に変化するならパニックにもなったかもしれません。しかし、5年ならば、目標の多くを達成するに足る時間だと思えました。

自分に明確なタイムリミットを設けて仕事をしていますか。四半期の目標があり、日を追って仕事をしていても、命がかかっている松村氏に比べたら、大したことないんじゃないかな自分、と思えてしまうのです。

松村氏は5年というタイムリミットをもって、具体的なビジョンを掲げ会社の行き先を定めるのでした。

松村は、まず5年間の前半に、会社を上場させようと考えた。「単なるベンチャーのオーナー企業から、株式を有し時価総額をもって会社の価値を語れる存在になるんだ、と。上場すれば、社員が銀行で住宅ローンを組めるようにもなります。ダイヤモンドダイニングに入り働いてくれる社員たちに、できることのひとつは、それだと心に決めました」
続いて5年以内に「100店舗100業態」の達成を掲げた。つまり「1店舗1業態」を売りにしたコンセプト・レストランを100店舗作るということだ。新店舗を開拓していくごとに斬新なアイディアを打ち出すことを続けていかなくてはならず、チェーン店が常識の外食産業では、荒唐無稽とも絶対不可能とも言われる方針だった。

熱狂宣言

絶対に負けない、そう胸に誓い、自分と戦い続ける。世に問い、証明し続ける。そんな熱い仕事ができているか。本書を作品として楽しむことだけでも、数回読んだだけで味わい尽くせない深みや発見があるのに、さらになんだかハートに火が付くような。

「熱狂こそ、生きる証し。熱狂こそ、試練への答え。俺は何が起きようと屈しない。体の自由を奪われようとも、このクリアな思考回路がある限り、絶対に負けない」
松村の声にならない声は、強さを増した。「俺は誓う。自分が存在する限り、たとえ何が起ころうとも、屈しない。必ず、熱狂を起こし続ける!」
静寂の夜明けにたった一人で行う「熱狂宣言」。それは、松村にとって命と向き合った神聖な一刻でもあった。

自分は何を賭けて熱狂していこうかな。ひたすら自分を褒める自伝本とは違い、この本の出版自体にも彼の人生を進める役目があるからこそ、心が揺さぶられる読書体験を得ることができます。この「THE READING EXPERIENCE」が一人でも多くの人に共感してもらえるといいな。

 

熱狂宣言

熱狂宣言

 

 

安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生(書評/レビュー)

「自己啓発本でもなく、教科書でもないビジネス書」すなわちノンフィクション的な自伝、身を焦がすリアルな体験が味わえる本を好む私にとって、 【安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生】はまた手に取らざるを得ない良書と言えます。

全くの経験ゼロ、たった一代で年商3000億円、東証一部上場企業を創りあげた安田氏がその破天荒な人生を振り返る自伝本。「三越伊勢丹超えの衝撃」「26期連続増益」とも言われるドン・キホーテの裏側を知ることもできる本書。

ビジネス書好きにとって面白くないわけがありません。

安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生 (文春新書)

安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生 (文春新書)

 

自伝なので多少の自己肯定は当然の中、 29歳までギャンブルで生計を立てていたという話は、なにやら勇気を与えてくれます。

起業を志した理由は、高尚なものでなくてOK

起業をする時、「ビジョナリー・カンパニー」「孫正義本」などをよく読む人にありがちなのが(私もそうだったのが)なにやら大志を抱かなければいけないのではないか、という錯覚があります。

その大志とビジネス的なポイントが一致しているほど、人はきっと着いて来るし、そうでなくてはならないのではないかと。もちろん、そのほうが良いケースもたくさんあるのだと思いますが、ドン・キホーテにおいては違ったということ。

見かけによらず傷つきやすい私は、周囲の華やかな慶応ボーイたちを見て、「ああ、こいつらいいな」と心底羨み、歯軋りし、やっかんだ。同時に、「サラリーマンになったら、オレは永久にこいつらには勝てないだろうな」とも思った。
だが、めっぽう負けず嫌いの私は、その現実を受け入れられない。「どんなことになっても、こいつらの下で働く人間にだけは、絶対になりたくない。ならば自分で起業するしかない。ビッグな経営者になって、いつか見返してやろう」 そう固く心に誓ったのである。この決して高尚とは言えない、ごくごく私的な情念と決意が、私のビジネス人生における原点だ。「えっ、起業を志した理由は、たったそれだけですか?」と、よく人に聞かれるのだが、これがすべてなのだから「そうです」としか答えようがない。

さらには、29歳まで麻雀をして暮らしていたというのだから、「なんだか早咲きでないと成功でない」といった雰囲気も漂う中、幾ばくかの勇気も与えられるものです。また、ドン・キホーテを語るに欠かせず、本書でも度々出てくるのが「ナイトマーケット」の存在。1990年頃から、コンビニとドン・キホーテだけが圧倒的な成長をすることができたわけだが、腐らずに考えぬいて自分の感性を信じた(本書では「知識も経験もないから自分のみを信じるほかなかった」)からこそとも言えるのでは。

その頃の私のライフスタイルは、徹夜麻雀をして朝帰りし、夕方にまたゴソゴソ起き出して雀荘に出かけていくという、自堕落を絵に描いたような毎日だった。
もっとも、当時のそんな体験が、のちにドンキの仕事で大いに役立つことになる。
うらぶれた気持ちで夜の繁華街をあてどなくさ迷いながら歩いた経験から、私には夜の街を漂流する若者たちの気持ちが痛いほど良くわかる。深夜市場の開拓や、ひとりで夜の街を徘徊する人々の心の襞に触れるドンキ流マーケティングを確立できたのは、当時の体験あってこそだ

このような体験から、政策的な提言もいくつか行われていて、気になったのはこちら。

ところで、夜の経済と不可分な要素が「祭り」だ。古今東西、電気のない時代から、祭りは夜にやるものと相場が決まっている。夜祭りはあっても朝祭りなどというのは聞いたことがない。夜は非日常感と自由度が高まり、ストレスの発散度も高くなる。だから消費にも直結しやすい。ドンキの社員なら、体でそういうことを理解しているだろう。
だから自治体なども、どんどん祭りを開催すればよい。縁日の屋台なども排除せず、あえて猥雑感のある夜祭りを盛り上げれば、周辺商店や飲食店の売上も増え、また男女の出会いとその交際需要等も喚起されるから、それによる関連(?)消費がさらに増え、最終的には少子高齢化の解決にもつながるかもしれない。そうなればまさに一石が二鳥にも三鳥にもなろう。
いずれにせよ、今の若者は祭りに飢えているのではないか。たとえば、本来西洋の祭りであるはずのハロウィンの、近年のわが国における、あの異様な盛り上がりぶりは、いったい何なのだろう。おかげで当社も、大いにハロウィン効果を享受させてもらっているが、結局、あのハロウィン現象は、祭りへの飢餓感のあらわれと私は理解している。

独自の小売・流通業・経営のノウハウを蓄積していくドン・キホーテ

ノンフィクション・ビジネス書を読むと、よく見かけるキーワードはやはりあって、成功に欠かせない本質なのだと発見があります。本書でもやはりでてきました。

「お客様の声」を聞く

今でも私は、小売業にとって最良の教師はお客さまであり、現場は最高の教室だと確信している。それを唯一の拠り所に、私は自らの素人商法を決して曲げず、自分なりに進化させていった

権限委譲をする

そうこうするうちに、彼らはいつの間にか圧縮陳列と独自の仕入術を会得していった。結果的に私は、「泥棒市場」時代の自分と同じ環境に彼らを追い込み、そこでの原体験を疑似共有させたことになる。要は自ら考え、判断し、行動する「体験環境」を用意してやれば、従業員たちに〝頭脳と創造性〟がひとりでに育ってくるのである。
それまでの怠け者たち(失礼!!)が一変して、勤勉かつ猛烈な働き者集団と化したのには、もう一つ理由がある。
権限委譲によって、仕事が労働(ワーク)ではなく、競争(ゲーム)に変わったからだ。社員同士で競いあいながら、面白がって仕事をするようになれば、以心伝心でお客さまもそれを面白がり、店は一気に熱気と賑わいに包まれて行く

権限委譲のルールを定める

・明確な勝敗基準(勝ち負けがはっきりしないゲームはゲームではない)
・タイムリミット(必ず一定の時間内に終わらなければそもそもゲームにならない)
・最小限のルール(ルールが多くて複雑なゲームは分かりにくくて面白くない)
・大幅な自由裁量権(周りから口を出されるゲームほどヤル気が失せるものはない)

流れが悪いと思ったら、責めずに守る

まじめで能力と才能にも恵まれているのに、なぜかビジネスでうまくいかない人がいる。そんな人は、私に言わせると、「見」ができていない。つねに全力疾走でいると、危険を知らせる微妙な変化にも気づかないのだ。彼らは一生懸命であるあまり、自分の墓穴を掘るにも一生懸命になってしまう。

ドン・キホーテをビジョナリー・カンパニーにする

最初は個人的な成功を賭けて邁進したドン・キホーテ事業ですが、安田氏がドン・キホーテを永久の企業へと、公的な存在として進化させようと思った頃・名誉欲や金銭欲が満たされ視野が広がったのは「50歳頃」だと。この頃、売上1000億円、東証一部上場企業へと歩を進んでいます。

人生をかけて苦闘の末に築いたドン・キホーテという組織を、私の死後も未来永劫繁栄させるにはどうしたらいいのか? その一方では、安田隆夫という個の欲求をどうすべきか?……この二つの思いがつねに私の中に同居して拮抗し、ある時は前者、またある時は後者という具合に気持ちが揺れ、その振幅の大きさに密かに葛藤していたのである。
もっと正直にいうと、当時の私の〝個の欲求〟とは、もっとお金を儲けたい、もっと自分を認めてもらいたいという、いかにも俗なものであった。私は俗な欲求と羨望、嫉妬にまみれた人間だ。しかし、この俗っぽい欲求、すなわち金銭欲と名誉欲が原動力となってドン・キホーテが生まれ成長したこともまた、厳然たる事実だ。

私が本書を読んで「びっくり」したのは、この部分でした。

ドン・キホーテが後世、ビジョナリーカンパニーとして社会に認知されるのであれば、私はもう現世で何もいらない。少なくとも俗な個人的欲求など思い切りよく捨て去ろう。『ビジョナリーカンパニー』という書物は、そう教えてくれたのである。

ドン・キホーテ創業者がビジョナリーカンパニーを読んで意思決定をしていたとは。本書では特に安田氏が読書家であることは描かれてなく、自分の経験を元に直感を信じるタイプだろうと思っていたのですが、ここでビジョナリー・カンパニーが登場。ビジョナリー・カンパニーといえば、読んだ気になってわかったつもりになっている人が多いのでは、とも思うやや高度な書籍という印象があるのですが、経営する場面場面で本棚から引っ張りだしてくるのもいいな、と思った次第です。

ドン・キホーテが実践してきた「逆張り」戦略

いくつか特徴的なキーワードが散見され、ドン・キホーテの経営の「イズム」を感じることができる本書ですが、最後に「逆張り」戦略を紹介します。

大手チェーンとの勝負を意識

既成の業界常識やシステムに則ったやり方をしている限り、やがて資本と情報力に勝る大資本に喰われる。これは生き馬の目を抜く現代ビジネス社会の掟であり必然だ。
小売業で言えば、どんなに個性的な繁盛店を作っても、その本質が既存業態の延長であれば、成功ノウハウはすぐ盗まれる。その上で同じ商圏に大手チェーン資本が進出してくれば、個店はひとたまりもない。

「業界常識とは「勝利者の論理」であって、「勝利のための論理」ではない。」

では「業界常識」とは何か。それは先発企業の膨大な成功実績にほかならない。そして先発企業には、巨大な資本と人材、圧倒的なシステムとノウハウの蓄積がある。
業界常識に従うとは、そうした先発企業と同じ土俵、同じルールで戦うことを意味する。言い換えれば、業界常識とは「勝利者の論理」であって、「勝利のための論理」ではない。だから、後発企業が先発企業のマネをしても絶対に勝てない。

ビジネスのヒントになる「疑似体験」はありましたでしょうか。顧客としてドン・キホーテによくお世話になってきた私の半生を振り返っても、「ああ、よくお金を落としてきたな」と思います。読みやすい文体に没入感も得られる本書、ぜひ手にとってください。Kindle版もあります。

安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生 (文春新書)

安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生 (文春新書)

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