THE READING EXPERIENCE

他人のビジネスを擬似体験できる本こそ至高と信じ、そのような本を発掘・紹介するブログです。

新聞記事と東京地検特捜部の関わりがわかる→真山仁「標的」の書評・感想

自己啓発本でもなく仕事術的な本でもなく、他人の人生を疑似体験できるような本こそが最も学びの多いビジネス書である、と考え、そんな学びがありそうな本ばかりを選んで読んでいます。そしてこのブログでは、そのような本を発掘・紹介しています。

要するにそれはノンフィクションの自伝とかになるのですが、決してノンフィクションだけを取り扱っているわけではありません。経済小説だって、大いに学びが得られるものです。本日紹介する本は、真山仁さんの「標的」です。 

 

標的

標的

 

日本初の女性総理大臣がほぼ決まった女性を起訴する話

 「標的」は、東京地検特捜部に務める主人公の仕事を描いたシリーズの第二作目。前作「売国」は、このブログでも紹介しました。

東京地検特捜部って何してるのかわかる→真山仁『売国』の書評・感想 - THE READING EXPERIENCE

ストーリーとしては、与党の総裁となった女性政治家を起訴する話。また、高齢者ビジネスとして批判の的にもなることがあるサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)もテーマのひとつとなっており、この点も丹念な取材に基づくリアルな描写は学びがあります。

最後どのような結末となるのかは、本書を手にとって確認してください。主人公の検察官が正しいとも、被疑者のほいが正しいとも、どちらともいえないのが、この本の魅力。そのような描写が、読後感に与えるいい意味でのもやもやの発生源になっていて、単に小説としても面白いです。

最大の学びは、新聞記者の仕事ぶり

この小説では、スクープを狙う新聞記者も描かれます。編成会議から取材の手法、どう取材者へヒアリングし、どう記事にするのか。悪い記事を書こうとしている相手にどう取材するのか、へりくだって情報を取るのか、最初から喧嘩腰で厳しく挑むのか。自分が崇拝している政治家について良い記事を書きたいのに新聞の方針が違った場合の葛藤やいかに。

そういう部分が、真山仁さんも物書きだからこそか、なんか東京地検特捜部のことよりも生々しさが伝わってきたというか、なんかそっちのほうが気になったんですよね。

いまの自分も、東京地検特捜部のことはあくまで知識欲の一環として捉えた一方、新聞記者のほうが自分のビジネスや趣味に近いというか、ブログの記事を書くのにだってコタツ記事と取材記事があるなかで、「ネタを取るのにそんなに苦労してるのか」という気づきがあります。

複数の書籍を並行して読むと、いろいろ気づきが多いと言いますが、まさにその状況が起きまして。この本を並行して読んでおりました。

なぜ週刊文春はスクープを連発できるのか?「週刊文春」編集長の仕事術を読んで/書評・感想 - THE READING EXPERIENCE

週刊文春が、ネタを取るのにいかに苦労しているのか、そしてそこにはいかなる大義があるのか、その内面がわかります。

もちろん東京地検特捜部がどのように機能し、どう調査し、どう被疑者を口説いていくのか、なかなか見ることのないその内情を垣間見ることができる本書。本ブログおすすめの経済小説です。Kindle版もありますよ。

 

標的

標的

 

 

 

 

 

東京地検特捜部って何してるのかわかる→真山仁『売国』の書評・感想

当ブログのコンセプト(というか僕の選書スタイル)は、他人のビジネスストーリーを疑似体験できる本、ということ。自己啓発本でも、仕事術的なものでもなく、読書を通じて他人のエクスペリエンスに乗っかることができるのか、その一点を基準にしています。

その意味では、別にフィクションかノンフィクションかはこだわっておらず、いやむしろフィクションのほうがテーマによっては楽しめるもの。そのため経済小説のジャンルだって、大いに学びがあるものです。半沢直樹シリーズには「銀行って大変なんだな」という普遍的事実を納得感や理不尽さの具体例をもって体感し、ハゲタカシリーズには「ファンドマネージャーにもいろいろあるけどこの辺のレベルになるとカリスマと呼ばれる水準なのかな」とその業界を知りたくなるきっかけになったものでふ。

もちろんその理解度は、あくまで本を読んだだけで、しかもフィクションですから、人前で披露できるようなものではないでしょう。ただ、未知の業界について知るきっかけを得ることや、少なくともその業界を取材している著者が描く作品に触れることは、大いに学びがをあるうえに単純に楽しいという、一石二鳥があるものです。

さてそんな意図をもって手にした真山仁さんの「売国」は、期待を裏切らない作品でした。

 

売国 (文春文庫)

売国 (文春文庫)

 

 「売国」は、東京地検特捜部の主人公が、ある大物政治家を逮捕するまでを描いた作品。並行して描かれる宇宙行政とのストーリー展開も、緊張感を高めます。

警察と検察の違いがわからないとか、検察とか木村拓哉のドラマ「HERO」くらいでしか知らないとか、そういう人でも楽しめると思います。基本的すぎる知識は、時にはぐぐったりと自己解決が必要かもしれません。ただ、例えば「法務省と検察の力関係」「政治家の陰謀」「普通の検察や、東京地検特捜部の捜査体制」「自白強要の問題」「被疑者とのコミュニケーションや交渉」など、検察のことについて基礎知識を超える知識を持ったこともなかった僕において、そのニュアンス感がわかったことは大いに実になりました。もちろんフィクションであることは承知のうえですが。

特に、物語前半の、幼女殺害事件を立件する流れは、裁判ギリギリの証拠集めと一発逆転っぽさこそフィクションっぽさがあるものの、個人的には面白いパートでした。(この頃は、主人公は東京地検特捜部ではなくただの検察官なのですが。)

なお、この小説においては宇宙行政についての話も半分くらいが締められています。私は明確に「東京地検特捜部ってなにしてるんだろう」という部分に読書目的をフォーカスし、むしろシリーズ次作の「標的」のためにこの本をまず読んだ目的もあったため、あまり宇宙行政の話は頭にはいっていませんw どこまでがフィクション色が濃く、どの程度が「丁寧に取材してて実態に近いか」というのは、もし他に感想などまとめられている人がいれば知りたいな、とは思います。

ということで、「東京地検特捜部の疑似体験ができる本」ということで真山仁さんの「売国」。おもしろく読めた本です。おすすめします。

 

売国 (文春文庫)

売国 (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

なぜ週刊文春はスクープを連発できるのか?「週刊文春」編集長の仕事術を読んで/書評・感想

2016年は、週刊文春が世を騒がせた年として記憶されていると思います。「SMAP裏切りと屈伏」「甘利明氏の金銭授受疑惑」「ベッキーさんの禁断愛」などスクープを連発し、世にもう一度週刊文春の名を知らしめた年でした。編集長・新谷学さんの書籍【「週刊文春」編集長の仕事術を読んで】を紹介させていただきます。

【「週刊文春」編集長の仕事術】は優れたノンフィクション・ビジネス書

広告取扱ではインターネットに抜かれ、置き換えられると思われている「雑誌」。そんななか、インターネットメディアには週刊文春を超える報道誌は見当たらないのが現状ではないでしょうか。

このブログは、他人のビジネスを擬似体験できる本こそ至高と信じ、そのような本を発掘・紹介するブログ。ノンフィクション・ビジネス書を紹介するブログとも言え、「大王製紙前会長 井川意高のカジノ狂」や「リブセンスの最年少上場まで」などを紹介してきました。

www.thereadingexp.com

www.thereadingexp.com

そのなか、なぜ【「週刊文春」編集長の仕事術】という自己啓発本っぽ仕事術の本を紹介するのかというと、この本は紛れもなく編集長・新谷学さんのノンフィクション・ビジネス書であり、まるで生死を賭けているような仰天取材例のオンパレードだからです。 

「週刊文春」編集長の仕事術

「週刊文春」編集長の仕事術

 

WEBメディアに関わる人にこそ、読んで欲しい

 雑誌No.1の座にいる週刊文春がここまで本気で紙面づくりをしていることを知り、同じ「コンテンツ」を取り扱うインターネットがいかに未熟かということを意識せざるを得ません。

インターネットで仕事をしてると、出版社とか記者や編集者、ましてや編集長という職業の人に会うことってなかなか無いと思います。でも、キュレーションメディアをはじめ多くのいわゆるWEBメディアが、実は仕事領域として被ってるんですよね。

出版社がWEBに参入して、課金形態やマネタイズを模索しながら無料で取材記事を配信している「東洋経済オンライン」や各誌、「BuzzFeed Japan」のようなメディア、Yahoo個人で活躍するジャーナリストの方々が、インターネットにおける報道メディアの一端を担っています。しかし、検索エンジン最適化「だけ」を目指すメディアやブログの多さを見ると、なにかそこに魂を込める手段はないのかな、と思います。

この本を読むまで、週刊文春はただのゴシップ誌で、ただ単にスクープを狙うパパラッチ的な雑誌だと思ってました。ただの建前だとか、大言壮語という人もいるかもしれませんが、編集長・新谷学さんの主張と決意に、僕は週刊文春の存在意義に納得しました。

なぜ週刊文春はスクープを連発できるのか?

 ネットメディアも記者を雇ってスクープを見つけろとか、コタツ記事を書くなとか、検索狙い記事だけじゃなく主義主張を世に問えとか、そういうことは言いませんが(この記事もコタツ記事だし検索狙いだし)、いわゆる「課金メディア」である週刊文春が、いかに課金されるために面白い記事を作るのか、という部分は多いに参考になると思います。

いくつかの要素を取り上げるとしたら、このあたりでしょうか。

・その世界のキーマンとつながり続けること
※キーマンからネタ提供を受ける場合も多いとのこと。でもその親しいキーマンを「文春砲」の相手にすることもあり、それでもなお関係性を維持するんだから、ただならぬ人脈術ではある。

・現場の判断で、優先度を変えること
※前田敦子が泥酔して佐藤健にお姫様抱っこされる様を激写したのは、新人記者。別件で前田敦子を追跡していたところ、麻布十番の店に続々と人が集まり、本来の取材を辞めて張り付いていたとのこと。

・不可能を可能にする覚悟。
「無理と言われてからが編集」と語るのは、「はじめての編集」の著者・菅付雅信さん。その意見と同じく、面白いことをするには、難攻不落の壁を突き破ることが必要だという。

・最終的には、上記が機能するような組織づくり。
※本書には週刊文春の組織が事細かに解説されており、ここは特に納得度高く参考になります。真似はなかなかできなさそうだけども。

【「週刊文春」編集長の仕事術】はKindle版もあるよ。

稀代の編集長が、在籍中にその編集長の仕事っぷりを残した本書。誰もがコンテンツを発信できる昨今において特にその仕事に意義があるように思いました。ぜひ読んでみてください。

「週刊文春」編集長の仕事術

「週刊文春」編集長の仕事術

 

Airbnbの売上や歴史・生い立ちがわかる「Airbnb Story」の感想・書評

1年ほど更新が滞っていました。本は引き続き読んでいたのですが、本業で新規事業に参入し、インプットとアウトプットのバランスを欠いてたというか、そんなこんなでブログのことをすっかり忘れてました。業務が落ち着いてきて、「アウトプット欲」みたいなものが出てきて、また読んだ本を紹介しようかな、と思ったものです。

 ただ、過去のブログはあまりにも長文・大作な傾向があり(その時はいまより暇だったのでw)記事をさくっと書けないこともなんか更新するメンタルのハードルになってたように思うので、さくっと紹介するスタイルも実験してみようかなと思ってます。といっても時系列で僕の活動などを見る稀有な人などいないでしょうが…

そんなこんなで更新再開の1発目はこちらの本。「Airbnb Story」です。Kindle版もあります。

Airbnb Story 大胆なアイデアを生み、困難を乗り越え、超人気サービスをつくる方法

Airbnb Story 大胆なアイデアを生み、困難を乗り越え、超人気サービスをつくる方法

 

 うちのブログ、というか僕の選書のスタイルとして、「実体験・実話があるビジネス書」を好んでいます。これはブログタイトル「THE READING EXPERIENCE」の名に込めたとおり、他人のビジネスを擬似体験できる本こそ至高と感じているためです。ノンフィクションのビジネス書、ともいえますね。

その目的においては、誰の話なのか・どの会社の話なのかというのは時として重要なのですが、時代を象徴する「Airbnb」の話ということで、これは取らざるを得ません。

圧巻なのは1章、2章、8章。

第1章ではCEOや創業者たちの創業秘話から最初の資金調達までが描かれており、誰にも支持されなかったアイディアが、仲間を集めてビジネスとして成立していく仮定を疑似体験できます。

第2章では、最初の資金調達から3兆円企業になるまで駆け足で紹介されています。起業ヒストリー本で熱くなれるのはこの辺ですよね。

そして第8章では、Airbnbに「宿泊」だけではなく「体験」(エクスペリエンス)が追加された件の裏側がレポートされています。あなたが、すでに完成されたサービスへの新機能を担当する人であれば、この章には勇気づけられると思います。

他の章は、Airbnbがクレームを引き起こしたときや、各国の行政と衝突したときの対応なども「読書エクスペリエンス」として役立つものの(そして不幸話ほど面白いのも確かなものの)、Airbnbの現状レポートっぽく、好きな所だけ読めばいいかなっとも思いました。

あなたがノンエンジニアの起業家(または起業家志望)なら、CEOのストーリーは参考になりそう

WEB系とかIT系で起業する時、あなたがプログラミング出来るのか出来ないのか、結構大事だと思います。エンジニアであるほど有利だと思いますし、ノンエンジニアの起業家が一人目のエンジニアという実質的な創業パートナーを探すのはとても苦労しているのを耳にします。

主人公であるAirbnbのCEOブライアン・チェスキーは、エンジニアでもなければ、デザイナーでもありません。また、創業者エンジニアであるCTOのネイサン・ブレチャージクは、資金調達ギリギリまで、Airbnbへの本格参入を踏みとどまっていて、ブライアン・チェスキーは説得に苦労しています。

あなたなら、CTOをどうやって見つけて仲間に引き入れますか?その視点で見ても、発見があるでしょう。このブログではこれまで、その方法を紹介してきましたが、冒頭に書いたとおりそれをレポートするのがとにかく時間がかかるのでw 「続きは本書を見てね」ということで、 気になる方はこの本を手にとって見て下さい。Kindle版もありあますよ。

Airbnb Story 大胆なアイデアを生み、困難を乗り越え、超人気サービスをつくる方法

Airbnb Story 大胆なアイデアを生み、困難を乗り越え、超人気サービスをつくる方法

 

 

 

 

106億円ギャンブルで負けた上場企業・社長の話→「熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録」本紹介/書評/読書感想

会社の金を横領し106億円もギャンブルで負けた人の壮絶な体験記

当ブログ「THE READING EXPERIENCE」は、読書でしか得られない「体験」を紹介するブログです。自己啓発本でもなく、教科書的でもないノンフィクションの実体験こそ、最良のビジネス書であろうと定義し、そのような本の発掘と紹介を目指しています。

本日は、ギャンブルにハマって数億円単位の勝負が常態化し、子会社から巨額借り入れして事件化した「熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録」の本です。「カイジ」が最新話ではワンショット2億円くらいの賭けをしていますが、それを超す掛け金となっています。 (なお記事タイトルは「社長」としていますが、社長時代にギャンブルで借金を重ね、発覚時は「会長」、裁判時には退任となっています。)

熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録

熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録

 

この事件、2011年9月頃にマスコミで話題になっていましたが、覚えていますか?私は当時、仕事にめちゃくちゃのめり込んでいたので、世間のワイドショー的な話題に着いていっておらず、2013年に刊行された本書で初めて事を知りました。いかようにして106億円も負けたのか。借入事件が発覚した時、家族はどうなったのか、会社はどうなったのか。めっちゃブチ切れたのか。裁判はどうだったのか。うーん、めっちゃ気になる!

本書は、「熔ける」というタイトルにもあるとおり、106億円もなんだか負けたのに客観的かつ「勝手になくなっちまった」みたいな自分勝手なタイトルがまず突っ込みたくなるところ。「熔かした」のほうが正しいんじゃないか、と。しかしながら「読書体験」の切り口でいえば、克明に描かれている様々な事実や心情、丁寧に生い立ちから説明してくれる章立てに、ちょっと言い訳や弁解がはいってきて、とても人間臭く臨場感もある仕上がりになっています。

今、井川意高氏は獄中で服役中。またメディアに出てくるタイミングもあるでしょうから、この事件を知らない人もぜひ御覧ください。

事の顛末

皆さん、ギャンブルはしたことがありますか。カジノはしたことがありますか。井川意高氏のカジノにおける舞台は、マカオとシンガポール。最終的にはシンガポールの「マリーナ・ベイ・サンズ」のVIPルームで最後の一敗を喫したこととなるそうです。

まず、カジノとかそういう施設に「VIPルーム」があることなんて私は想像の世界とか、マンガの中でしか知り得ないわけでしたが、それが実在し、また克明に描かれているところに、本書から得られる読書体験の一様があります。また、それが「マリーナ・ベイ・サンズ」であることも、これがノンフィクションではないことを感じさせます。だってここでカジノしたことあるもん…。最小ベッドでちまちまと楽しむだけの観光的な参戦でしたけどね。

借りる。負ける。さらに借りる。さらに大きく負ける。
11年が明けたころから完全に歯止めがきかなくなり、借り入れ金は40億円、50億円……とどんどん拡大していった。

後述するセクションで、この子会社からの借り入れスキームもご紹介ができますが、ではなぜギャンブルが止まらなかったのか。「地獄の釜が開いた」と紹介されています。そして、毎週末、金曜夜に飛行機によりシンガポール入りし、月曜朝に帰ってくるような生活を続けていたそうな。心理描写としてはこのように描かれています。

「今までの勝ちはいったん白紙に戻すのだ。目の前にある20億円を種銭とし、あのときのようにさらに10億円、20億円と勝ちを膨らませてやる。そうすれば今までの借金がすべてチャラになるだけでなく、赤字を黒字に転換して悠々と日本へ帰れる」

この思考法、無限にギャンブルで富を増やし続けられるようなロジックとして、ギャンブルの渦中にある人間が陥るようようです。

ここまでの描写はほんの本書のプロローグなのですが、私も気付きました。マリーナ・ベイ・サンズで行ったカジノこそ、一万円負けて撤退のかわいいものでしたが、株の信用取引で500万円なくなったとき、この考え方をしていたわ…と。2014年の相場で500万円負けたのであるから、相当下手くそだと思うのですが、アベノミクスの恩恵がまた薄い個別株に自分の総資産投資し、ある種のボラティリティの高さに酔っていたところがあります。私は再起不能になる前に損切りをし、その後の投資方法を改めることができたものの、勝っているときには「今までの勝ちはいったん白紙に戻し、その額を種銭にする」という考え方、理解できてしまった(というか過去の自分にあてはまった)瞬間から、本書が他人事にはならなくなってしまい、読了までのめり込んでいくこととなります。

こうして私は、シンガポールの「マリーナ・ベイ・サンズ」でさらなるエスカレーションに突入していった。最終的に私がカジノで負けた総額は106億8000万円にまで膨らんでしまうことになる。

私の場合は500万円の負けでよかった。だからこそ誰にも発覚しなかったし、誰からもお金は借りなかった。もし、106億円なんていわず、1億、いや、数千万・数百の負けに対して借金や横領があったとしたら…。

ギャンブルが公に知られ、誇り高き一族にも知れ、刑事事件にもなろうとは、その過程も前後も、大いに「THE READING EXPERIENCE」の瞬間を楽しみたいところです。

2011年6月、私は大王製紙の会長に就任した。それからほんの数カ月後の9月16日、巨額融資の実態が発覚して会長を辞任することになる。同年11月22日、会社法違反(特別背任)の容疑で東京地検特捜部に逮捕される。そして、13年6月26日、最終的に最高裁判所で上告が棄却され、懲役4年とした一審、二審判決が確定した。

井川意高氏の生い立ち

本書では、井川意高氏の生い立ちから記録されています。本書は一応、井川意高氏としての処女作なのですが、事件が起きずになにかビジネスストーリーを描く本を出版される機会が別の世界線であったのなら、それはそれで成立するほど、彼のビジネス人生とその生い立ちは「エリートそのもの」です。

生まれから大王製紙の三代目

1964年7月28日、私は大王製紙創業家の2代目・井川雄の長男として生まれた。創業者・井川伊勢吉は、私の祖父にあたる。小学校6年の2学期まで、私は大王製紙の四国本社がある愛媛県伊予三島市(現在の四国中央市)で育った。

世襲で2代目となっていた大王製紙・井川家の長男として生まれ、幼き頃から大企業を継ぐのだと使命をもって育った少年時代が描かれています。

当時も愛媛県では最大規模の工場を有し、地域No.1の企業として名を馳せた大王製紙。当時は、教師との対峙や小学生時代の過ごし方など、エリートの使命を追いながらも普通である自分との心の向き合い方も描かれ、これはこれで私が過ごすことのなかった小学生パターンがわかります。こういうのも、貴重な「読書体験」です。

中高生時代から東京で過ごす

オイルショックが一段落した74年の夏には、出版物をターゲットに据えて新たなマーケットを開拓する方針が固まった。出版社は東京に集中しているため、父は75年の年明けから営業本部長として東京に進出し、陣頭指揮を執って出版社向けの紙を拡販することになった。
私は筑駒に入学することにした。筑駒は中高一貫教育であり、東京に出てきてから6年間、私はこの男子校で勉強することになる。
私にとっての東大は、まさにレジャーランドそのものだった。入学した法学部は、試験で一定の点数さえ取れば最後は必ず卒業できる。出欠を取る授業がほとんどなかったため、単位を落とす心配もなかった。

エリートを自覚する思春期のなか、東大への進学がほぼ約束された中学への入学。

東京大学にここまで簡単に進学していると、そうではない私(そして大部分の読者)にはやっぱりエリート街道を魅せつけられるわけです。その中には、父との関係性も描かれ、大変厳しくスパルタ教育が中心だった父に怯えながら暮らしていた苦悩もわかります。

とはいえ、やはりこの辺りの描写も、あくまで「懺悔」としつつも、マスコミによって誤解が生じている井川家や自分本人への言い訳と弁明により、少しでもイメージがよくなればというのが分かる話題が目立ち始める箇所でもあり、さすが「熔ける」という客観的な、あたかもギャンブルで負けたことは人間的な摂理のなかの現象であると言いたそうな全体論調だと見てとれる部分があります。

とはいえ、だからこそ懺悔部分や、その「どの人間でもハマる可能性のあるギャンブルの危険性」的な描写がされているパートも、本ブログ的にはギャンブル・エクスペリエンスが味わえて、面白かったわけですが。

幼少期からの使命通りに生きる井川意高氏

「自分は将来、大王製紙に入り、ゆくゆくは会社を継ぐことになるかもしれない。とはいえ、会社を継ぐのは大変な仕事だ。生半可な気持ちで経営者になれるわけはない」
そんなプレッシャーは、幼いころから私の肩にのしかかっていた。
東大を卒業してから、私は大王製紙社員として公私ともに父という「暴君」の手のもとで生きることになった。

ギャンブルとこの生い立ちが関係あるのか、厳しい親に育ったからギャンブルにストレス解消の活路を見出してしまったのか、いまいちわからないまま本書は終わります。ただ少なくとも弟の井川高博氏はギャンブルに興じておらず、血の影響や家庭の要因は可能性が低いのではと思います。また本人も「すべての経営者がギャンブル好きではない」としているので、経営者だったからギャンブルにのめり込んだわけでもないようです。個々人の性格やきっかけ、または弟との違いでいえば、社長を継ぐことを前提とした生き方が弟よりもプレッシャーがあったとか、そういう可能性は考えられます。

井川意高氏のビジネス論も本書の章立てを構成しています。これも、ギャンブル伝説としてでなければ好きな話はいくつかあったんですけどね。。

学生時代、父から帝王学を学ぶ

「井川は学生時代から、銀座の高級クラブや祇園のお茶屋に毎日通い詰めていた」
私の巨額借り入れ金問題が世間を騒がせていたころ、そんな報道がずいぶん流れた。「毎日通い詰めていた」というほどの頻度ではなかったが、この報道はあながち間違ってはいない

後に紹介する箇所がありますが、井川意高氏は巨額借り入れの事件発覚後、マスコミに執拗に追いかけられ、有る事無い事を報じられる「ワイドショー」のネタとなります。

ワコール2代目の塚本能交社長、中山製鋼所3代目の中山雄治社長、作家の小池一夫先生や東映の渡邊亮徳副社長など、錚々たる大先輩にかわいがっていただいた。
父は時々、私を銀座の店に連れていってくれた。いずれ経営者になるであろうことを見越したうえで、同席させていたのだと思う。父は大学生の私に、経営者としての〝帝王学〟を施し始めた。酒席での交流を通じて、財界の名だたる経営者に次々と私を紹介してくれたのだ。

創業家に生まれ、大企業を引き継いだのは、井川意高氏の父・井川高雄氏も同じであるから、やはり創業家としての苦悩は同じくあったのだと思います。2代目から3代目にかけても、井川家を引き継ぐものとして、学生時代から「英才教育」がされていたことがわかります。

後程、この手塩にかけた息子が、会社から数十億円の借金をした罪で本人が実刑判決を受けるだけではなく、父・井川高雄氏、弟・井川高博氏がそろって会社から追放されただけではなく、株を売り払ってギャンブル借金を一緒に返済することになるのですから、リアルな人生模様を思い描いてしまいます。(それでもお釣りがきて、名誉こそ傷つけられたものの残り余生は悠々自適かもしれませんが、いずれにしても父と弟は完全にとばっちりです。)

井川意高氏のビジネスストーリー

東大卒業後、新卒で大王製紙に入社

1987年3月に東京大学法学部を卒業した私は、翌4月に大王製紙に入社した。
88年に大王製紙三島工場に赴任してから、4年ほどかけて紙作りの現場を一通り見た。木材チップや古紙といった原料が、いったいどのように管理されているのか。原料をどのように処理し、紙の繊維となるパルプが作られていくのか。紙作りの理論や設備の仕組みをみっちり学んでいった。

新卒で、他の企業で修業をするでもなく大王製紙に入社した井川意高氏。これは昔がそういう風潮だったんですかね。世襲はしないと決めている経営者も多いですが(本ブログで取り上げたドン・キホーテ安田氏も同様)、大企業で世襲をする前提なのであれば寄り道する暇もないのかな、とも思ったり。

91年6月には、工務・開発担当の常務取締役に就任した。そして翌92年の正月には、当時は別会社だった名古屋パルプ(岐阜県可児市)に社長として出向している。27歳のことだ。誤解されないように言っておくが、別会社の社長といっても、たいした立場ではない。要するに、大王製紙の可児工場で工場長を務めろという、父からの〝辞令〟だったのだ。

年間70億円もの赤字を出し、900億円もの借金を抱えている会社に出向となった井川意高氏。武者修行として送り込まれながら、自分の創業家のお金がどんどん目減りするわけですから、必至に頑張ったようです。「巨額の赤字体質をなんとかするため、悪夢にうなされながら名古屋パルプの未来について真剣に悩み抜いた」と振り返る本人のとおり、過酷な生活に身を投じており、また別の章では「大王製紙の務めで面白いことはなかった、使命でやっていた」とも述べており。楽しくないのが仕事とはいえさすがに「やりがい」はあるだろうと思うものの、そうでもない井川意高氏に、少し同情してしまいつつある章になっています。

いかんいかん、ギャンブル狂によって迷惑した人側の気持ちなどを大いに汲み取り、被害者がいることを前提に考えなければいけませんね。このような「同情」へリードすることが本書が出版された裏目的のような気もします。

30歳の若さで、専務取締役に就任

「自分の代で会社をつぶしてしまうかもしれない」
非常なる危機感をもって金融機関と対峙したのは、大変苦しくもあり貴重な経験でもあった。92年1月に名古屋パルプの社長に就任してから、95年6月まで3年数カ月の奮闘が続いた。必死に考え働いた結果、年間70億円も出ていた赤字をなんとかトントンの収支まで回復できたことは誇りに思っている。
95年6月の株主総会により、私は大王製紙本社の専務取締役に就任した

入社8年、30歳の若さで、大王製紙本社の専務取締役に就任したことが分かります。仕事はとてもよく出来たようで、父のスパルタ教育の成果か、血の優秀さか、サクセス・ストーリーは類まれなものがあります。何度か申しておりますが、懺悔録ではなく、後継者問題にも日本中で立ち向かう今、立派な自伝書として読みたかったものはありますね。。「紙」という斜陽産業、激化する競争環境のなか、会社を支え、社長を全うした井川意高氏の経営手腕というのは、その生い立ちと教育方法からしても後継する側、後継される側、いずれにしてもサクセス・ストーリーだったわけですから。

大王製紙のBtoC事業、要するにオムツなどを取り扱う「家庭紙事業部門」の事業部長に入ってからの話も躍動感があり、好きです。年間50億円以上もの赤字に苦しむ問題部門だったようですが、現場社員とも向き合い、店頭にも立ち、ブランド戦略から小売の現場での競合との棚取りまでを全うした実績は、単に「家業だから必死にやった」という話では済まない実績。ピーク時では家庭紙事業部門を60~70億円の黒字までもっていけたようで、赤字から100億円の利益を積みましたこととなります。

42歳で社長になる

「意高。お前、そろそろ社長をやれや」
父からの突然の宣告により、07年6月、私は42歳の若さにして大王製紙社長に就任することになった。まさかこんなに早く、社長の座を継ぐことになるとはまったく想像もしていなかった。

上場企業の社長ですからね、世襲とはいえ、世間的にはとても早い出世ではないでしょうか。この章で最も私が参考になったマネジメント論はこちら。

大王製紙の経営者として、私は空虚な言葉だけの議論を徹底的に排除することにこだわった。会議の席上、こんなことを言う人間がたまにいる。「コストを徹底的に削減し、営業部員との意思疎通、コミュニケーションを密にします」
こういう抽象的な言葉が飛び出したときには、私はすかさず具体性を問うようにしていた。「『コストを徹底的に削減』って、どこのコストをいつまでにいくら削減するの?
『営業部員との意思疎通、コミュニケーションを密にする』って、メールを毎日1通は必ず送るという意味?
それとも週に1回は必ず直接会って話をする?」
美麗な言葉を口にしてその場をごまかそうとする人間は、このような指摘をされると、とたんに言葉が詰まってしまう。「コミュニケーションを密にする」など、何も言っていないに等しい。「テレビ会議でもかまわないから、週に2回は必ず開発部と営業部の会議を開く」といったように、具体論を述べなければ仕事は先へは進まないのだ。

私も、キレッキレだったときは、スタッフや外注先に、このような詰めはできていたような気がします。今できているかというと、全然できていないですね。このような鬼ツッコミをする時、自分のビジネスへの本気度や、する相手との関係性もあるかもしれません。なんだか仕事にフルコミットしていないから、相手に優しいことしか言えない。厳しく当たったときのフォローをする前提で正面からぶつかってない。「このレベルで仕事をしなくちゃな。」と素直に思える、ギャンブル本というか、カイジのノンフィクション版かと思った本書で、思わぬ金言にも遭遇したわけです。

「井川さん、あなたは仕事はできる人だったんですね」
特捜検察官からも、苦笑交じりにそんな皮肉を言われ、複雑な気持ちになったものだ。

東京地検特捜部に逮捕されたあとの取り調べにより、こんな証言がされていますが、幾ばくか、仕事のできは良かった彼のストーリーはまた別の機会にたっぷり味わいたいもの。

ギャンブルで106億円負けるまで。また、子会社7社から借り入れするまで

お待ちかね(?)のギャンブル体験パートになります。本を読み始めて冒頭、自分にはギャンブル癖はないと高をくくっていたところ、株取引でギャンブル状態にあった自分の心理状況とシンクロする箇所を見つけ、戦々恐々と読み進めているところ。最初は一単元で数十万くらいの株取引だったのが、一発あたりの取引の利益に目がくらみ、気づけば全力2階建ての数千万のポジションをもっていたっけなぁ。

概要

大王製紙社長に就任するまでの私は、決して毎週のようにカジノへ通っていたわけではない。ゴールデンウィークや夏休み、正月休みや週末の連休を利用して、親しい人間数人と出かけていた程度だ。年間2~3回、多くてもせいぜい年に5~6回程度の頻度だったと思う。
07年6月に大王製紙の社長に就任して、2年が経ったあたりからだ。カジノへの熱の入れ方は急激にエスカレートしていった。勝ち続けて目の前のチップが増えると、次第に感覚が麻痺してくる。1回のゲームで100万円単位を賭けるのが当たり前になり、さらにはマックスベット(1ゲームあたりの賭け金の上限)を張って、1ゲームに1000万円以上ものチップをつぎこむようになった。
08年になるとカジノに通う頻度が上がり、多少負けが込んできたものの、実は09年秋の段階で赤字分を一度すべて取り返している。そこでバカラをやめておけば良かったものの、さらにカジノ通いはエスカレートしていった。
10年になると資金繰りに行き詰まり、グループ企業の子会社からカネを借り入れることを思いついた。

事の顛末を手短に説明し、ハマる過程を上記のとおり紹介すると、最初はお遊びで興じていたものが、いつしか引き下がれなくなった、ということ。年単位で徐々に進行するカジノ。大王製紙グループやそのグループ会社は過去の倒産を教訓にして、常に手元に余裕資金を置いていたからこそ、井川家の支配下にある各スタッフの目をすり抜けて、借り入れが着々と進んでいたよう。

カジノデビュー

私が初めてカジノに出かけたのは、1996~97年ころのことだっただろうか。ゴールデンウィークを使って、オーストラリア東海岸のリゾート地・ゴールドコーストに家族旅行に出かけた。数組の友人家族が一緒だった。

初カジノでの軍資金は100万円だったそう。この時点で、世間一般の人間より随分と掛け金が高いことが垣間見れよう。ここでバカラ(トランプを使った半長ゲームのようなもの)と出会ったことが後の破滅へとつながっていくだけでなく、なんとここで大勝ちしてしまうことが、数奇な運命を決定づけるかのような序章となるのでありました。

2泊3日の初カジノでは、種銭の100万円は失ってしまってもいいと思っていた。その種銭はどうなったのか。なんと私は見事に大勝ちし、オーストラリアから日本へ帰国するときには100万円が2000万円まで膨らんでいたのだ。
当時の私にとって、数日間で2000万円もの大金を手にしたことは、驚きと興奮以外の何物でもなかった。この大きすぎたビギナーズ・ラックが、私をカジノのおそるべき底なし沼へ引きずりこんでいくことになる。

大勝したことが、後の破滅的大敗を呼ぶ。これは、きっと、勝った瞬間にはわからないのではないでしょうか。肝に銘じておくことにします。もしかしたら、本書での最大の学びかもしれません。また、井川意高氏は「これが直接的なきっかけではない」と弁明し、引き続きカジノにのめり込む様を丁寧に描写しているものの、明らかに間接的にはきっかけになっているように思えます。その後も高額な軍資金をもって賭けに興じることとなります。(本人が高額ではないと思っているあたりに、人生を吹っ飛ばせる威力のある「金額」にリーチする可能性が高かったとも思います。)

ラスベガスでのギャンブル体験

いつぞや海外出張に出かけたときに1日空きができたため、ポケットに70万円を突っこんで1日限定でラスベガスまで勝負をしにいったことがある。このときは途中まで大勝ちを続け、一時はなんと4000万円ものプラスになった。ところがそれから急激に負けが込み、最終的には種銭の70万円まで全部スッてしまった。「まあいいや。オレは4000万円負けたわけじゃない。70万円負けただけだ」
そう自分を納得させて、おとなしくラスベガスをあとにした。

他にもカジノ参戦の様子が描かれているのですが、勝ったり負けたりするその過程に興奮を覚えてきたのが、このタイミングだったのではないでしょうか。一方で、ラスベガスは飛行機でも10時間の距離ということもあり、頻度の面ではまだ年数回程度のペースだったようです。

ここで、物語ではキーとなる人物、K氏と出会います。「ジャンケット」という職業を私は初めて知ったのですが、VIPのカジノ客をおもてなしするコンシェルジュのような人のようです。バックグラウンドは描かれていませんが、このK氏が数億円単位でギャンブルの種銭を融資してくくれたりします。カタギな世界ではないんでしょうね。。

「カジノで一度腰を下ろせば、日がな一日ギャンブルを楽しむことができるのだが……」
そんな私に大きな転機が訪れる。のちにジャンケット(仲介業者)としてマカオのVIPルームに私を手引きすることになる、K氏との出会いだ。
K氏の案内で03年ころから時々マカオに遊びにいくようになった。初めてマカオに行ったときには、種銭の300万円は全部スッてしまった。

マカオは、香港まで5時間+フェリーで1時間の距離にあり、日本からのアクセスが優れています。ペースが急激にあがったのはこの辺でしょうか。ここからさらに、カジノにはまりはじめます。また、マカオとK氏のコンボにより、借金システムと出会ってしまうことも、破滅を呼ぶ不運な出来事だったと思います。なんだか、オーストラリアでの初カジノからここまで、一本の線で導かれているような、カジノ産業がつくりあげた超効率・廃人化システムにそのまま乗ってしまったような、そんな気がしてしまいます。

2回目にマカオで2泊3日の勝負をしたときには、やはり種銭の100万円を失ってしまった。このときに初めてジャンケットを通じてカネを借りるシステムを知り、借りた500万円を新たな種銭としてリベンジを期した。その500万円もゼロになってしまおうかという終盤、最後の30分で奇跡が起きた。
私は思いきった勝負に出た。そこから一気に600万円以上を盛り返し、500万円の借金をその場で返しただけでなく、元の種銭100万円まで取り返すことができたのだ。こういうミラクルがあるから、人間はカジノにやみつきになってしまうのだろう。

はじめて借金をしたものの、それをその日に返す。これもまた、彼を一層悲運に導くきっかけだったのかもしれません。辞めるきっかけ、ぶっちゃけ何度もあったわけですが、徐々に「快感」になることを含め、感覚が狂っていく様もわかるため、結論を知っているだけに読み進めるペースも上がってしまうところ。「こういうミラクルがあるから、人間はカジノにやみつきになってしまうのだろう」とはまた客観的な描写で、ツッコミを感じてしまうポイントなのでありますが、上から目線で「俺はこんな人間じゃない」と馬鹿にするのではなく、あくまで真摯に学びたいところ。ギャンブル・エクスペリエンス。

カイジだったら、底抜けなダメ男を見て「俺はこんな人間じゃない」と物語として没入することができますが、きちんと仕事を頑張ってきた人の物語なだけに、再現性があると思うんですよね。

VIPルームの客は数千万円、ときに億単位のカネを使うため、カジノにとっては専用の個室や駐車場を準備することなど必要経費の範囲内だ。スイートルームなりセミスイートなりに泊まると普通は1泊30~40万円はするわけだが、私の場合いつも無料で泊まることができた。往復の飛行機はビジネスクラスを確保してくれ、もちろんフライト代も無料だ。
「ウィン・マカオ」の場合、移動に際してはよくロールスロイスを手配してくれた。空港に降り立って入国審査を通過した瞬間、黒塗りのロールスロイスがスタンバイしていてくれる気分は悪くない。「ウィン・マカオ」という戦場へ向かう人間にとって、自然と気持ちも高まっていく。

その後、カジノに勝ったり負けたりしながら、ジャンケットへの借金を返すために個人的な資産を取り崩していく様子が描かれていきます。また、カジノのVIPルームに関する説明も丁寧に描かれており、「VIPルームってこうなっているんだ」と行った気分になれるのも、本書の大きな魅力。自分でいくような事態になる前に、満足できているので、それはそれで良しとしよう、そう思えるのです。

カジノで使う金額の大小によって配車が変わる(例えばBMWになる)等といった待遇の差もはっきりしているようで、もしそんな違いで優越感を得たり、もっと大勝負をしようなどと考える瞬間があったら、それこそノウハウの塊のようなカジノが一枚上手だったことにはならないでしょうか。まぁ、ハマる前の冷静な状態でなにを論じようが、机上の空論なのでしょうが。。

破滅のはじまり。大王製紙の連結子会社数社からの個人的借り入れ

2011年4月以降、私はほとんど毎週のようにマカオへ出かけてバカラをやり続けることになる。金曜日の夕方に仕事を終えると、その足で羽田空港へ向かう。金曜日の深夜にはマカオ入りし、ほとんど眠らずに勝負をし続ける。
ジャンケットのK氏がコンシェルジュのようについてくれるようになってから、カジノでの勝負はどんどんエスカレートしていった。K氏の口ききによってカジノの運営会社に数千万円、数億円という借金を重ね、負けはどんどん拡大していった。
どうにかして負けを埋め合わせなければならない。私は個人的事業のつなぎ資金という名目で、大王製紙の連結子会社数社から10億円を超えるカネを引っ張るようになっていった(

カジノで出来た借金を返済するために、大王製紙の子会社から資金調達をはじめることとなる井川意高氏。本書でも、オーナー企業であることが、どこか正常な意思決定を欠くというか、「返せばいいだろう」といった考えに陥っていたことを認めています。また、とっくに勝ち負けの次元ではなく「カジノ」自体へ没頭することによる快楽にハマっていることもわかります。

カジノのテーブルについた瞬間、私の脳内には、アドレナリンとドーパミンが噴出する。勝ったときの高揚感もさることながら、負けたときの悔しさと、次の瞬間に湧き立ってくる「次は勝ってやる」という闘争心がまた妙な快楽を生む。だから、勝っても負けてもやめられないのだ。地獄の釜の蓋が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦がれるような感覚がたまらない。このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う

そして止まらないギャンブル。週末にマカオかシンガポールに出掛ける井川意高氏。ジャンケットによる借り入れの前にも、マカオでの「クレジットカード現金化」により3000万円をつくっていた実態なども記録されていました。初期の、オーストラリアやラスベガスでの軍資金100万からの出発から、数千万のステージ。そして、負けが込む度に掛け金を引き上げて、取り戻そうとする井川意高氏。明らかに子会社からの借り入れにより、一勝負で数億円規模の泥沼勝負が常態化しています。

総額106億8000万円の借り入れ金
【2010年】
■5月12日ダイオーペーパーコンバーティングから5億5000万円
■6月1日エリエールペーパーテックから2億5000万円
■6月18日エリエールペーパーテックから2億5000万円
■6月23日エリエールペーパーテックから4億5000万円
■8月23日エリエールペーパーテックから5億円
【2011年】
■1月5日ダイオーペーパーコンバーティングから7億円
■1月14日エリエールペーパーテックから4億円
■2月9日エリエールペーパーテックから4億円
■2月9日大宮製紙から6億円
■3月11日エリエールペーパーテックから2億円
■3月24日大宮製紙から3億円
■4月6日大宮製紙から3億5000万円
■4月7日エリエールペーパーテックから3億円
■6月15日大宮製紙から3億3000万円
■6月23日ダイオーペーパーコンバーティングから7億円
■7月1日いわき大王製紙から16億5000万円
■7月14日ダイオーペーパーコンバーティングから4億円
■7月19日いわき大王製紙から2億円
■8月2日いわき大王製紙から4億円
■8月16日大宮製紙から6億5000万円
■8月16日大宮製紙から5000万円
■9月1日ダイオーペーパーコンバーティングから1億円
■9月2日赤平製紙から3億円
■9月5日エリエールテクセルから4億円
■9月6日エリエールテクセルから1億5000万円
■9月6日富士ペーパーサプライから1億円

以上、合計106億8000万円。
巨額の資金は、「LVSインターナショナルジャパン」というカジノ会社に直接送金した8億5000万円を除き、すべて私個人名義の預金口座に振り込まれ続けた。

最後の敗北、マリーナ・ベイ・サンズでの週末

「バカラで5時間かけて勝負した結果、500万円が1000万円に膨らんだ。ならば10時間かければ、1000万円を2000万円にまで増やせるはずだ」「運とツキさえ回ってくれば、500万円を5億円に増やすことだってできる。現に150万円を4時間半で22億円にしたことだってあるじゃないか。目の前にある20億円を30億円、40億円にまで増やし、今までの借金をすべて取り返すことだってできるはずだ──」
忘れもしない。あれはマカオの「ウィン・マカオ」でバカラをやっていたときのことだ。数百万円の種銭からスタートし、あるときは5億円、別のときには7億円の勝ち逃げに成功したことがある。それどころか、12億円、15億円という巨額の大勝ちも経験済みだ。
「井川さん、そろそろおやめになったらどうですか。もうすでに、テーブル上のチップは20億円もあります。ここでいったん勝ち逃げし、ワンクッション置いてからもう1ラウンド勝負しては……」
シンガポールの「マリーナ・ベイ・サンズ」で私をアテンドしてくれていたカジノのスタッフは、テーブルの上に20億円ものチップを積んだまま、一向に勝負をやめる気配のない私を見かねて、たまらずといった感じで声をかけてきた。
いくら大勝ちした状態だからといって、これまでのカジノ遍歴をトータルで勘定すれば、とうてい赤字分を補填するには足りない。この20億円を原資として、今日中にさらに盛り返すのだ。スタッフの気遣いに耳を貸すこともなく、そのまま勝負を続行した

106億円にまで負けを積み重ねる背景には、もうそろそろ誤魔化せない、逃げられないという背水の陣状態であったこともあったでしょう。

 運と偶然性のみが支配するバカラの勝負に、私は全生命を賭けて挑んだ。目の前に積まれた20億円によって、カジノ史上誰も成功させたことがない奇跡を呼び起こすのだ。そして私は伝説をつくる。目の前で開きかけた地獄の釜の蓋を、我が強運によって轟音高らかに閉じてみせる──。 だが、ひとたび開いてしまった地獄の釜の蓋は、二度と閉じることはなかった。48時間の死闘が終わったとき、私は煮えたぎる溶鉱炉のごとき奈落で熔解していた。

私のささいな株取引の損失から、いくつか共感できる心理状態はありました、「勝ちをゼロにして、その種銭をもってもっと勝つ」とか。しかしながら「伝説をつくる」という思考回路に陥っているのは、全く同情が沸かず、この考えに至っている自覚があると、もしかしたらブレーキをかけたほうがいいのではないでしょうか。しかしながらそんな上手くいくわけもないのもわかる。「伝説をつくる」等と考えなければいけない状態になっていることが既に悪だし、崩壊している状態である、ということでしょう。

実は井川意高氏は、ギャンブルに勝ったり自身の株の現金化を行ってこまめに子会社に対しても借金の返済をしていたことと、7社に渡るバランスを考えた借金采配により、バレにくくなっていた点が、ここまでのベッド金額の高騰を招いた様子。発覚した段階で、借入残高は50億円超。破滅した状態でシンガポールを後にし、ある日突然、日本での発覚となるわけですが、シンガポールからの帰路はさぞかし、常夏の南国でも寒さで身の震えるような状態だったでしょうね。正直この辺の描写は本で詳しくして欲しかったのですが、想像で補うこととします。

ついに、巨額借り入れがバレる

2011年9月7日、大王製紙の連結子会社7社から資金を借り入れ続けていた事実が、社内メールの告発によって発覚してしまったのだ。

私が数少ないギャンブル体験を得ている漫画「カイジ」の印象だと、大敗を喫したらその場で処刑されたり、どこかに連れ去られていくイメージがあります。井川意高氏の場合、ギャンブル会社には借金をすべて綺麗に返済しているため、足がついたのは、借り入れをしていた大王製紙子会社から。奇しくも、シンガポールで種銭を全て失った後となります。

なぜ、淡々と借り入れができたのか?

普通の株式会社組織では考えられないような単純な方法で、私は子会社に常識はずれの貸付をさせていた。
子会社からカネを借りるにあたっては、私から子会社の役員に直接電話連絡を取っている。資金調達の理由について、多くを説明することはなかった。「個人的に運用している事業がある。至急×億円の貸付を頼む」
そう説明すると、「わかりました」
と言ってすぐに資金を調達してくれた。
監査法人のトーマツは、10年7月29日の段階で資金貸付に気づいた。トーマツが経理担当者にそのことについて尋ねると、担当者は「井川の判断で事業活動の運転資金に充てている」という旨の返答をしたらしい。トーマツはその説明に納得し、さらに厳しく追及することはなかった。
その後、11年5月6日に私はトーマツの担当者と面談している。
大王製紙には常勤監査役が2名おり、そのほかに弁護士2名、元国家公務員1名による非常勤の社外監査役を置いている。監査役会が開かれたときにも、不正貸付についてのチェック機能は働かなかった。

社内でも、井川意高氏の借り入れは把握されていたようですが、あらゆるチェック機能をスルーしており、会社の体制が疑われるには十分すぎます。貸付に協力した役員は、東京地検特捜部の取り調べに対して「井川家が怖かった」という旨の供述をしているようで、それが7社に分散していたからこそ、さらに気づきにくい状態だったのでしょう。

借り入れ20億円の段階で、父にはバレていた

私の父・井川雄(大王製紙顧問)は、実は11年3月の段階で20億円分の借り入れの事実に気づいていた。「コノヤロウ!
お前は何をやっているんだ!!」
借金の事実を知った父は、烈火の如く激昂した。私だけでなく、資金調達を許した子会社の役員にも電話をかけて怒り心頭に発したと聞く。「この借金はどうしてつくった!」「FXです」

ここでは個人的な投資という言い訳をして、暴君である父の指摘から逃れる井川意高氏。

「バカヤロウ!お前がもっている株を売りはらって、早いところお前自身の手で借金のカタをつけろ!」
こうして私は、11年4月に子会社のエリエール総業に自らが所有する株式を譲渡することになった。だが、父は知らなかった。実は、これで借金すべてを返したわけではなかった。バツの悪さや父の怒りへの恐怖もあり、私は借金の全貌を知られないようにしたからだ。

当然、激昂ですよね。父が借金の実態に激怒したのはここが初めてなのですが、その後の描写が本書では薄かったのは残念。全容が発覚した後や、実刑判決を受けた後のリアクション、もっと見たかった。ドロドロとした人間模様をもっと知りたかったが、ぶっちゃけ井川意高氏は親族とも顔を合わせていなかったのでは、綺麗にコミュニケーションを図っていなかったのでは、とも思えます。

社会的な制裁を受け、また実刑判決も決定。家族もバラバラに

なぜ連結子会社からカネを引っ張ることへのハードルが、私の中で低かったのだろう。「過半の株式をもっている会社から、一時的にカネを融通したって問題はなかろう」
こんなことを口にすれば、多くの読者から批判の声を受けることは承知しているが、そんな軽い気持ちがあったことは事実だ。

明るみに出れば、東大卒の上場企業会長がカジノで大敗&子会社から巨額借金、珍事中の珍事です。本書では、その後マスコミによる蜂の巣を突くような勢いの猛攻を受け、本人のみならず親族それから役員へも執拗な取材、それから有る事無い事を掻き立てるワイドショー的な報道が連日日夜続いたということです。

私の巨額借入事件により、創業者である井川家は大王製紙から排除されてしまった。父・雄だけは顧問という形で今も会社に残っているものの、かつてのような発言権はない。
大王製紙の取締役を務めていた私の弟・高博は、2011年10月の段階で会社から辞任を求められていた。弟は辞任を拒んだものの、株主総会前日の12年6月に大王製紙を去っている。創業家の取締役だが、弟に退職金は支払われなかった。この件に関して弟の口から恨みごとを言われたことはないが、私の馬鹿な行ないの結果だと思えば、ただただ頭を下げるしかない。
こうして、祖父・伊勢吉の代から築いてきた井川家3代の歴史は灰燼に帰した。
12年6月26日、井川家は大王製紙並びに関連会社のすべての株式を北越紀州製紙に売却している。株式売却が合意に至ったおかげで、一審判決を前にして私はすべての借金を返済することができた。

この事件をきっかけに、大王製紙と創業家の対立が深まり、父も弟も立場を無くす事態となっています。井川意高氏、ここで弟と恐らく顔を合わせておらず、何の感情も引き出していない本書に、ある意味で家族のリアルを感じるところがあります。絶対、弟、怒ってるもんね…。

ここでは、株式全部の売却により50億延長の残高があった借金返済を完了したとのことで、創業者の孫に生まれある程度上場企業の株を持っている、ということの資産的な威力も感じます。この辺ですよね、この辺りもとてもおもしろい「疑似体験」のシーンとして、また読書でしか知り得ないリアルとして、読書の楽しみが詰まってもいます。

最高裁判所で上告が棄却され、懲役4年とした一審、二審判決が確定

2012年10月10日。私は現代の御白州で裁きを受けようとしていた。罪状は、我が大王製紙の連結子会社から55億3000万円を借り入れた会社法違反(特別背任)だ。検察から求刑されていた懲役6年に対し、東京地方裁判所の裁判長は、懲役4年の実刑判決を言い渡した。覚悟はしていたものの、予想どおり執行猶予はつかない。借金はすでに全額完済していたが、やはり執行猶予つきの大岡裁きを受けられるほど甘くなかった。
2013年6月26日。
最高裁判所で上告が棄却され、懲役4年とした一審、二審判決が確定した

取り調べを受けるシーンも量を割いて解説されており、刑事事件エクスペリエンスの過程も大変に楽しめます。

本書は、刑量が確定し、服役をするまでの間に書かれ出版されています。今頃は服役している井川意高氏。カジノにはまった記録を公開する、という社会貢献的な出版意図に隠れつつ、マスコミによって有る事無い事が報道された件についての弁明を行いたい、という思いが見てとれますが、それでも克明に描いてくれた本書には、各所のツッコミどころをAmazonレビューに書きなぐりたくなるものの、謙虚に学ぶ姿勢で読み取れば、十分に身になる箇所も多い本です。だって、106億円という金額はさておき、ギャンブルで身を滅ぼす過程、これ再現性ありますもん。

本事件で被害にあった方々、迷惑を被った方々のことを思うと、単にエンターテイメントとして楽しめましたというわけにもいきません。ブランドの毀損を含め会社に損害を与えたことは事実かと思います。出来るだけなにか社会に学びを発信する形で紹介ができていればと思うとともに、個人的なビジネス体験として学びになればと思います。なお、本ブログでは紹介しきれれていない「実名の交遊録」「メールでの事件発覚から裁判の詳細な過程」など、味わい尽くすに時間を忘れる記録がまだまだあります。ぜひ本書を手にとってみてください。

今日の「THE READING EXPERIENCE」

本書の中のエクスペリエンスで一番気付きだったのは「初カジノでは、種銭の100万円は失ってしまってもいいと思っていた。その種銭はどうなったのか。なんと私は見事に大勝ちし、オーストラリアから日本へ帰国するときには100万円が2000万円まで膨らんでいたのだ」でした。ビギナーズラックで勝ったとき、当然浮かれていると思いますが、それが後の破滅につながると誰が想像できますか。

なにか大勝ちしたときに「これは大丈夫なのか」と振り返ること。冷静な一面をもって評価できるのか。これはギャンブルのみならず、ビジネスでも同じではないでしょうか。井川意高氏が106億円まで負けを積み重ねた出発点が、これだったわけですから。

熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録

熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録

 

在日韓国人の孫正義が起業するまで/「あんぽん」読書感想

孫正義は朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ立て小屋の中で、膝まで水に浸かりながら、必死で勉強していたという。

孫正義氏の生い立ちについては、自身も多くを語るようになり広く知れるようになりましたが、それではノンフィクション作家の佐野眞一氏が書き上げた「あんぽん 孫正義伝」は読んだことがありますか。2011年に週刊ポストで連載後、2012年に発刊されておりますが、韓国にまで赴き孫正義のアイデンティティを探り、ご両親や親族から得た話は、今でも色あせない話がざくざく出てきます。

あんぽん 孫正義伝

あんぽん 孫正義伝

 

 当ブログでは、「自己啓発本でもなく、教科書的でもない、他人の人生を疑似体験できる本こそが至高のビジネス本」と位置づけ、そのような本の発掘と紹介を目指しています。孫正義氏の、とりわけ壮絶な幼少期を取りあげずして、他にどんな本を紹介してる暇があろうかと、本棚から引っ張りだして、他に予定してた「スターバックス」「大王製紙のギャンブル社長」等の順番抜かしして記事を執筆しているところです。

もちろんビジネス史としての孫正義史の活躍も、面白いでしょう。「自動翻訳機をシャープに売って資金調達」「ヤフーBBのモデム無料配布」「総務省にガソリンぶっ掛けて火をつける」等の武勇伝は大変痺れますし、そのようなエクスペリエンスもまた違う機会でご紹介したいところ。

しかしながら、世のヒーローはどのような原体験があったのか?という点も興味深く調べている私にとって、冒頭にある出来事をはじめて本書で知った頃の驚きは隠せません。そして、なにやらタブーではないかと思い込んでいた「在日韓国人」としての孫正義氏について、ここまで切り込んだ本もなかろうかと。著者・佐野氏が徐々に切り込んでいく取材により、真実が明らかになるたびまた次の章を読み明かしたいと迫られる。夜更かしにもなります。

逆に言うと、孫正義氏の「起業後」に関しては記述が薄い本書。その点で期待はずれの方のレビューが目立つのですが、だからこそ幼少期のフォーカス具合、深さは相当なものです。「強烈な原体験」シリーズ、当ブログ「THE READING EXPERIENCE」では大好物な部類にはいります。

幼少期や青年期に起きた強烈な体験や挫折・失敗があるひとは、強い。私の解釈では、孫正義氏はこれにあたる成功要因があるだろうと思っていたため、本書で描かれている「事実」にはひたすら驚きを隠せず、高いテンションのまま読了をしました。自分にはそんなものが無いからこそ、他人の人生を疑似体験し少しでも学ぼうと思っています。ぜひ氏の幼少期・青年期に迫ってください。

※なお、「在日韓国人」「在日朝鮮人」と2つの言葉が本書内でも使い分けがされておりますが、恐らく明示的に韓国人だという際に前者、よくわからない時に後者がつかわれているような気がします。つまり特に深い意味はないと思います。

生まれた頃から地獄の環境

孫はいまから五十五年前の昭和三十二(一九五七)年、佐賀県鳥栖駅に隣接し、地番もないという理由で無番地とつけられた朝鮮部落に生まれ、豚の糞尿と、豚の餌の残飯、そして豚小屋の奧でこっそりつくられる密造酒の強烈なにおいの中で育った。
「まあ、とんでもないところでしたよ。バラックというか、掘っ立て小屋ですな。粗末な家が軒先を連ねるように並んでいてね。全盛期には数十戸、人数にして三百人くらいの朝鮮人が住んでいましたよ。
みんな貧しかったから、豚を飼ったり、鉄屑を拾ったり、密造酒をつくったり、そんな家ばかりでした。線路脇ですから、SLの時代は汽車の音がうるさいだけじゃなく、煤煙が家の中まで入り込んで、壁まで真っ黒になった。とにかく上空まで煤煙で真っ黒になって、〝鳥栖の雀は黒雀〟と言われたほどです」

それまでは、武勇伝として語り継がれるベンチャー企業の成長記録を簡単に読む程度、「孫正義さんすごいなぁ。」とのんきに憧れたりしていたわけですが、それまでこのような出生伝を知らずして孫正義氏を語っていたのかと、強烈になにかもやもやが貯まるところです。 そもそも日本にそんな地域があったのかと。戦後ってそうだったのかと。なにやら差別があったり、病気をしたりといったストーリーは聞いたことがありますが、佐野氏が自ら親族にインタビューを敢行したからこそ知り得たこのファクト。

戦後の在日韓国人の扱いや、集落でどのように生活をしていたのか、なかなか知る機会がなかったため、なおさら日本の歴史や秘部を紐解いていくようで、そして孫正義氏を創りあげた「なにか」に近づいていくようで、ひたすら文字を追うところ。 ただひたすら、極貧の描写が続きます。

孫家とともに集落に住んでいた在日朝鮮人の話

「残飯を集めるのは女性たちの仕事でした。リヤカーを引いて近所の食堂を回り、残飯を集める。鳥栖は交通の要衝でしたから、九州全域から集まってくる行商人たちのための食堂や旅館も多かった。だから、残飯も大量に出たんです。集めた残飯は、大きな釜で一度炊くんです。消毒みたいなもんですな。
あまり大きな声では言えませんが、密造の焼酎も作りましたよ。まず、ドラム缶にもろみを貯め込んでね。そいつを釜に移して炊くんです。沸騰したらフタをしっかりして、中の蒸気をビニールのパイプで逃がしてやる。その長いパイプを途中で水の中にくぐらせて冷やしてやると、蒸気が再び液体に変わる。
パイプの先端からぽたぽた落ちてくるその液体を容器に貯めるんです。最初に出てくるのはアルコール度数七十くらいの濃い液体ですが、数十分すると、アルコールがほとんど飛んだ液体が落ちてくる。これを混ぜ合わせると、アルコール度数三十くらいの焼酎ができるんです」

上記のインタビューは、孫家とともに集落に住んでいた在日朝鮮人の話。みんなが極貧からのスタートで、必至に生活をしていたことが伺えます。

「狭い豚小屋にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、残飯ばかり食わされ、糞も小便も垂れ流しです。だから地面がぬかるんで、鼻がまがりそうな強烈な臭いがする。病原菌が感染したんでしょう、足が腐った豚もいた。
しかも、その場所で豚を絞めるんです。解体して肉やホルモンをとる。食べる部分以外は、朝鮮部落前にあるドブ川に流していたから、すごい臭いなんです。
豚の血も平気で流していました。そこに雨なんかが降ると、もうたいへんです。ものすごい臭いが周辺に流れてくる。でもいま思うと、それも密造酒の臭いを隠すためだったんじゃないですかね」

主に密造酒の製造販売をしていたのは、孫正義氏の父・三憲氏。この三憲氏も仰天エピソードが豊富にあり、後程章を設けていますが、本一冊は余裕でだせそうなくらい。いまの暮らしが当たり前となった日本人には到底想像のつかないこの生活ですが、本で読むだけの疑似体験でよかったとも思います。

孫正義氏の父親の姉の「ウンコ臭い水」の話

「思い出すのは、朝鮮部落の脇に流れていたドブ川です。そのドブ川が、大雨が降るとあふれ出すんですよ。ええ、洪水です。あっという間に部落全体が水没してしまう。その中に豚がぷかぷか浮かんだりしてね。ついでに豚のウンコまで浮かびあがる。
それが井戸の中に流れ込む。水道なんてありませんでしたからね。そんなことがあると、しばらくの間、井戸の水が臭いのなんのって。豚のウンコの臭いがするんだから。その水を飲んだり、煮炊きに使ったりしたんだから、よく腹を壊さなかったもんだよ。
大金持ちになった正義が、いまどんな水を飲んでいるかは知らんが、あいつだって、ウンコ臭い水を飲んで育ったんだ」

先ほどの在日朝鮮人のインタビューのみならず、同じく集落があった周辺でインタビューを重ねる内、孫正義氏の父親の姉が経営する焼肉屋を発見する著者。接触しインタビューに成功しますが、またこの話がもっと強烈なパターンで出てくるので、輪をかけて脳内に掘っ立て小屋の情景が思い浮かぶのです。間違いなく、この本で熱量のこもったピークのひとつであります。

後述しますがこの時、孫正義氏、6歳頃でしょうか。私自身は、普通の家でありがたいことに普通に育てられ、6歳までの記憶というと断片的なのですが、三つ子の魂百までとも言うとおり、人格を形成する時期です。人格が捻じ曲げるほどの出来事や環境に身をおいた方の立身伝をよく聞きますが、もしそのような幼少期の経験が「貪欲さ」「根性」そういったものを生み出すのであれば、もう、はじめからなかなか孫正義氏に勝てないのです。

成り上がっていく孫一家

孫一家がそうした闇商売に携わっていた期間は、ごく短い。彼らはすぐに別のビジネスに転身していった。そこで驚くべきスピードで築きあげた富が、孫正義をブレークスルーさせる最初の原資蓄積過程だった。
孫一家は正義が小学校にあがる頃、鳥栖の朝鮮部落を離れ、北九州市八幡西区に移り住んだ。JR黒崎駅から車で十分ほどのところである。在日韓国・朝鮮人が比較的多く住む場所として地元では知られている。

幼少期である孫正義氏よりかは、立派な大人として当時を過ごした家族のほうが、苦痛は大きかったと思います。人生をかけて大きなビジネスをし、転身していった様は、父・三憲氏も同様。極貧時代を経て、孫正義氏が正常に学習できるような環境が徐々に整うのでした。


三憲は金貸し商売をやりながら、「これは長くやる商売ではない」というのが、いつもの口癖だった。「カネはあくまで商品。カネ貸しだからといって、下品にふるまってはいけない」というのも、三憲の口癖だった。
孫が十歳になった頃、三憲は金貸しからパチンコ屋に転身した。
一九八〇年代の初め、大当たりが出るフィーバー機の規制がまだ始まる前のパチンコブームのときには、孫一族七人兄妹のうち六人が持っていた佐賀と福岡のパチンコ屋だけで、五十六軒もあった。その当時、パチンコで大儲けした孫一族の一人が建てた御殿のような豪邸は、いまでも一族の語り草になっている。

ちなみにパチンコで家族を養っていたそうな。すぐに商売が手広くなるあたり、ちまちまとしか商売ができない私にはこの辺りの話ももっと詳しく知りたいものですが、なにより出生が違うことから湧き出るエネルギーが圧倒的に違うのでしょうね。満たされていると、伸びない。極貧時代を経て、差別されながらも、56軒もパチンコ屋をやってたなんて、話の展開が早すぎます。

また、孫正義氏は父・三憲氏からビジネス思考や数々の援助を受けることになり、大きな影響を受けていることもわかります。

この時代を振り返ってのやりとり

朝鮮部落に生まれ育った孫正義氏は、後世になってこの時期をどう振り返っているのでしょうか。佐野氏のインタビューにより、振り返られています。

孫は、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いがする朝鮮部落で、「戦後ではない」どころか、敗戦直後以下の極貧生活を体験してきた。──これは同世代のどんな日本人にも真似できません。
「確かに幼い頃のあの体験が、人生は絶対這い上がらなきゃいけないんだ、と激励してくれているような気がしますね」──もう一つ大事なことは、極貧生活がごく短期間だったということです。もし中学くらいまで極貧生活が続いていたとしたら、きっとぐれちゃったんじゃないですか。「そうかもしれません」

とてもショッキングな事実だしインパクトもあるのですが、上記の通り孫正義氏の人格を形成する土台になっています。一方で、もっと氏の人格を捻じ曲げるまで、性格を決定づけるまでのエクスペリエンスは、「韓国人に対する差別」であったとわかります。

大躍進の孫家、部落を脱出するも差別に悩む孫正義氏

壮絶な経験を経て、すでに大人びている小・中学生時代

三憲がパチンコで成功すると、今度は鳥栖の郊外に、坪三万円という格安値で九百坪の土地を手に入れ、そこに城のような豪邸を建てた。
北九州に引っ越した正義は、北九州市立引野小学校に入学した。引野小学校の同級生によれば、孫正義はこの付近では珍しい、上品な感じの子どもだったという。「とにかく金持ちの子っていうイメージです。勉強も相当にでき、学年でも一、二を争うほどだったと思います」
北九州時代の孫正義は、大雨が降ると豚のウンコがプカプカ浮かぶ汚水が家の中に流れ込む劣悪な環境で育った鳥栖時代の孫正義とは、まるっきり別人である。

学生時代の孫正義氏に話が進みます。著者は、孫正義氏の小学校5・6年生の頃の担任と接触。

孫正義氏の小学校5・6年生の頃の担任の証言

「孫くんを担任していたのは、もう四十年以上も前のことです。その頃は安本くんと呼んでいましたがね。そんな遠い昔のことですが、なぜか彼のことはよく思い出すんですよ。
思い出すのは、そう、彼の目です。授業中、目をかっと見開いて、正面を見据えているんです。微動だにせずに。子ども離れしたすさまじい集中力でした。
しかも、その目が澄み切っていた。邪心というものがないんです。何かを必死で学びとろうと、熱い視線を教師に向けている。そんなことを感じることなど、長い教師生活でもめったにありません。
彼は何を見ていたんでしょうかね。教師の私なのか。それとも黒板の文字なのか。あるいはもっと奥にある何か別のものなのか。あの澄み切った目の奥に、何が映っていたのか、いまでも知りたくなるときがあるんです」
三上は担任中、孫が韓国籍だとはまったく知らなかったという。

当時は「安本正義」という日本名義の名前で暮らしており、それが本のタイトル「あんぽん」の元となっています。過酷な幼少期を経て、非常に大人びた小学生に育った孫正義氏。中学生時代の教師からは、「すぐリーダーになるタイプ」「おだやかで、怒ったことをみたことがない」と評価されていたようです。 ゲームばかりしていた私とは比べるべくも全くないのですが、それでもコンプレックスは人並みに持ち合わせており、心の闇と自分なりに対峙した時期でもありました。思春期にさしかかり、コンプレックスとして「在日韓国人であること」「名前を伏せて生きていること」に大いに自問自答していた孫正義氏の心情が、中学生時代の担任の証言でも明らかになります。

明朗な孫が内面に大きな悩みを抱えていたことを小野山は、孫が三年になったとき思いがけない形で知った。「突然、私の自宅に彼からの手紙が届いたんです。その手紙はもうなくしてしまいましたが、内容はよくおぼえています。『僕は将来、教師になりたいと思っています。でも、現実は厳しそうです。実は僕は韓国籍です。韓国籍では教師になれないと聞きました。僕はいま、そのことで悩んでいます』

在日韓国人として日本に暮らすこと、しかもこの時代に、ということの重圧や、差別を受け続けることへの苦しみ。丹念に描かれた各者へのインタビューや、孫正義氏との打ち合わせにより、深く根ざしていたことが明るみになるのです。

当時の友だちの証言により、カミングアウトの瞬間も描写されています。

「彼が韓国籍であることをはっきりカミングアウトしたのは三年の冬頃だったと思います。仲の良い友人たちと天神に遊びに行ったときです。回転焼き(大判焼き)の店に入って、おしゃべりをしていたんです。高校に行ったら、みんなバラバラになってしまうなあ、寂しいなあ、というような話をしていたとき、突然、安本くんが話を遮るようにして、ぽつりと漏らしたんです。『実は、僕は在日韓国人なんだ』って。

幼少期や青年期での大きなコンプレックスが、起業のテーマとなり、大きなエネルギーになる起業家がいます。孫正義氏も、このようなコンプレックスを抱えながら自問自動し、エネルギーに変換していた様子が本書では描かれています。

事業家になろうと決意し、アメリカ行きを決める高校生時代

孫正義氏の高校時代は、こんなエピソードからはじまります。久留米大附設高校に入学してから一ヶ月くらい経った頃、中学の頃の担任をレストランに呼び出します。(15歳の少年が、先生をレストランに呼びつけるのも珍しい(笑)と、しっかりこの孫正義氏らしい違和感にも指摘されています)

「実は僕は、いまから学習塾を経営したいと思っているんです。これが、僕が考えた塾のカリキュラムです。どう思いますか?」
孫はそう言って、レストランのテーブルの上に細かいカリキュラムが書かれた紙を広げた。
河東が驚いたのは、それだけではなかった。孫はこんなことまで言った。「僕はまだ高校生なので、経営の表に出ることはできません。そこで、先生に頼みがあります。先生、塾の責任者をやっていただけませんか?」
孫は要するに、自分がオーナーをやるから、元担任教師の河東に雇われ社長になってくれないか、とスカウトしにかかったのである。

実はこのエピソードは、孫正義氏のアメリカ行きのきっかけにもつながっています。

「私の父が吐血して入院した。家族の危機ですね。一歳年上の兄は高校を中退して、泣き暮らしている母を支えて、家計の収入を支えて、父の入院費、家計のサポートをする。母も一生懸命仕事する。
僕にとってはもう突然降って湧いたような家族の危機です。なんとしても這い上がらないといけない。どうやって這い上がるか。私は事業家になろうと、そのとき腹をくくったんです。一時的な解決策ではなくて、家族を支えられる事業を興すぞ。中学生のときに腹をくくりました……」
孫がアメリカに行くという決意をしたのは、このときだったという。(中略)孫が学習塾の経営を真剣に考えたのは、父の三憲が吐血して、大黒柱を失った孫家の家計は自分が支えなければならないという必死の思いからだった。

結果としては、中学の担任には断られてしまうのですが、もし中学の先生が孫正義氏の事業話しに乗っかっているとしたら、アメリカ行きはなかったのかもしれません。アメリカでは、孫正義氏は「差別に悩んでいる自分が解放される」「後にシャープに売る自動翻訳機のアイデアが具現化する」「結婚相手を見つける」等のビッグイベントが控えており、ひとつの人生の分岐点であった可能性があります。

もっとも、学習塾事業を先生に任せながら、アメリカに行っていた可能性もありますが。というのも、いずれにしても日本で暮らしていくにあたり、孫正義氏の夢がいくつも「韓国籍」であることを理由に阻まれるシーンが出てきたんですね。高校生といえば、もう自覚をしっかりもち、夢を追う立派なオトナ。その年代の頃に、在日であることへの差別や、実際の制度的なハードルを目の当たりにすることは、幼少期に単にアイデンティティを傷つけられるような差別とは、また苦しみが違うのかもしれません。

日本で重くのしかかる韓国籍のハードル

久留米大附設高校時代の孫の成績は、東大進学も狙えるほど優秀だった。
孫が後に語ったことによれば、そのコースを諦めたのは、たとえ東大に合格しても国籍の問題で官僚にもなれないと考えたからだという。国籍による差別は、年齢を重ねるほど孫の肩に重くのしかかってきた。
『僕は本当は日本の大学に進んで教員になりたかったんです。でも、韓国籍だと、それが無理だとわかりました。でも、たとえ韓国籍であっても、アメリカの大学を出れば、日本人は僕をもっと評価してくれるかもしれません』

アメリカ行きを打診する孫正義氏と、高校の担任の証言

「真剣な顔でそう言うのを聞いて、どんなに説得しても、この子をもう止めることはできない、と思いました。それでも私は『とりあえず、校長先生に相談してみるから』と言って引き留めたんですが、彼は『もう校長先生には話しておきました』と言うんです。
彼はことほどさようにやることが早いんです。というか、すでに本丸を攻めて、しかも落としていた(笑)」

この交渉フローを鑑みるに、すでに商売人としての才覚・センスを大いに感じさせる証言です。しかしセンスで突っ切っていたわけではなく、考えに考え、自問自答し、自らの出生や在日韓国人であること、その差別への葛藤、いろいろな思いが決断を生み、その解決策のためにまた深く考え続けて行動しているのがわかります。

単純な言い方をすると、「必死で生きていた」んだろうなぁと。ともすると、私たちはきっと孫正義氏のことをとんでもない天才だと見ていますし、アメリカ留学も余裕しゃくしゃくで羽ばたいていったんじゃないのか、と思っているところはありませんか。私がそうでした。確かに、この頃からも自覚的に自分の能力に対する自信が芽生えていたこともわかるし、父親のビジネス教育も大いにあったわけですが、まだ何ら成し遂げていなかった孫正義氏、全く何も満たされていなかったはずです。家族を巻き込み、反対必至の渡米、だけども、渾身の決断をせざるを得なかった。出生と環境が、孫正義氏を締め付け、決断をさせたのではなかろうか、決断をしなければいけなかったのではなかろうか、と思います。

アメリカ留学の決断が、大いなる志しが生まれる瞬間でもあります。

──アメリカに留学したのは、日本の大学を出てもしょうがないという思いもあったからじゃないですか。「久留米大附設を卒業して、東大に行って、何か事業を始めようと思ったこともあります。なぜなら、国籍の問題があるので、大企業は雇ってくれない。それならいっそ、日本よりずっと自由なアメリカでビジネスの種を見つけた方が手っ取り早いと思ったんです」──その頃に読んだ司馬?太郎の『竜馬がゆく』の影響も相当あったようですね。「ええ、すごく影響を受けました。龍馬も脱藩して江戸に出ましたよね。脱藩っていうのは、お家断絶になるような大きな罪ですよね。僕もアメリカに行ってしまえば、家族が絶滅してしまうかもしれないリスクもあった。だけど、もし僕が兄貴と同じように、目先だけの商売をしたら、とりあえずの危機から脱することはできても、多くの在日韓国人のプライドを取り戻し、天下国家のために役立つ事業がやれなくなる。あくまで夢のまた夢の話ですが、そういう志はあったんです」

アメリカ留学時代

幼少期を「豚のウンコ水」を飲みながら激臭の中で過ごし、青年期に差し掛かると差別に悩む孫正義氏。一念発起し、家族の反対を押し切ってたどり着いたアメリカ留学では、彼の人生の発射角度が一層ついたことが伺いしれます。

「最初に見たカリフォルニアの空のあまりの青さに(在日という悩みも)一瞬で吹っ飛びました。初めて見る黒人やメキシコ人がみんなへっちゃらな顔して歩いている。それまでくよくよ悩んでいた自分が急にバカらしく思えてきたんです」
一刻も早い大学進学を志望していた孫は大学入試検定試験を受験し、これに合格して、渡米から一年半後の七五年九月、ホーリー・ネームズ・カレッジ(現在はホーリー・ネームズ・ユニバーシティと改称)に入学した。

また、他の「孫正義・伝」ではなかなか触れられていない真実として、ここでの父・三憲氏の存在が上げられています。

アメリカ時代の孫が青春を思いっきり謳歌できたのは、国籍も人種も問題にしない自由な新天地に渡ってきたからだけではない。彼がアメリカで大きく羽ばたけたのは、肝臓病から復帰した父親・三憲からの潤沢な仕送りがあったからである。
父親からのこうした協力に関しては、すべての「孫正義伝」が無視している。「孫正義伝」のストーリーでは、孫が何から何まで独立独歩でやっていかなければならなかったのだろう。しかし、それではまるで一時代前の熱血少年マンガである。鳥栖で「焼肉仁」を営む孫の従兄弟の大竹仁鉄は言う。「正義は三憲さんに本当に可愛がられていました。アメリカに留学させ、十分な仕送りもしていた。正義は新聞配達をして大学に行ったわけじゃないんです。ばあさん(李元照)が正義を訪ねてアメリカに二度行ったのも、三憲さんが連れて行ったからです」

父・三憲氏は、上に記載の通り吐血して入院したのですが、これは風土病である寄生虫に体を蝕まれたためで、治療をして割りとすぐに治ったそうな。家族の危機が去ったあとは、また孫正義氏にアメリカ留学の仕送りをしていたわけですから、父親の支えがあってこそという話は、またここで判明している本書独特の真実ではないでしょうか。 (私はすっかり、アメリカ留学の段階で孫正義氏は独立をしているものだと思っていました。)

アメリカでは、今の妻と出会ったり、シャープに自動翻訳機を売るためのアイデアと出会い具現化するまでが描かれております。ここも独自の話が多く盛り込まれており、本書を手にとって頂きたいポイントでもあります。

孫正義氏の、父の話

孫正義氏を支えてきた父の安本三憲氏について、本書では1章まるほどを割いて丁寧に語られています。この父親がですね、また破天荒でして。

大邱郊外の「不老洞」に住む孫一族の末裔の孫太憲は、三憲には〝やり手〟という印象があった、正義がビジネスを成功させることができたのも、三憲の力添えがあったからではないか、と言った。
この推察は当たっている。
孫正義がカリフォルニア大学バークレー校経済学部の学生だった時代に開発した「音声付き多国語自動翻訳機」をシャープに開発者の正義を連れて売り込みに行ったのは、父親の三憲だった。

シャープに「音声付き多国語自動翻訳機」を販売した話は有名だと思いますが、父が絡んでいるとはまた独特の発見ではないでしょうか。

株取引に関しても独特の意見をもつ父。

「僕は株取引というものを、そもそも好かんのですよ。誰かが商売をしてそれで稼いだ、そのおこぼれをもらう。これは言ってみれば、乞食でしょうが。だから株で利益を出すというのは、僕のポリシーとは合わんのですよ。汗水垂らして稼いだ金じゃないですけんね。言ってみれば、不労所得ですよ。そういう金を手に入れても、最後はゼロにしてしまう。だから、あんまり性に合わん」

また、孫正義氏のビジネス観が少なからずこの父親から引き継いでいることがわかります。(この父親の話も、祖父から引き継いでいることが本書ではわかるのですが)こちらは孫正義氏の話。

「親父は、僕がちっちゃいときからいつも言っていました。正義、俺の姿は仮の姿だ、俺は家族を養うために仕方なしに商売の道に入ったけれど、おまえは天下国家といった次元でものを考えてほしいってね。だから、僕は小さいときから商売人になろうと思ったことは一瞬もないんですよ。
商売って要するに、できるだけ安く買って高く売ることですよね。でも事業家は違います。鉄道や道路、電力会社など天下国家の礎を作るのが、事業家です」

ちなみに孫正義氏の祖父も、破天荒

僕はおふくろが親父に一回だけ言うたの聞いたことがあるんです。『うちの父ちゃんは気位が高い。何の位か知っとか?
くそくらえっていう位だ』ってね」──くそくらえか(笑)。「もう、あんまり苦労させとるけですね。これは姉の友子に聞いたんですが、母が友子の次に清子を産んだとき、産んだばかりの母を殴ったそうです。『女なんて産んでも、まったく金を稼がん。なんで女ばっかり産むんや』と言ってね。お産を終えたばかりですよ、でも母は『次は必ず男ば産みますから、こらえてください』と詫びていたそうです」

これは父・三憲氏の話しなので、孫正義氏のおじいちゃん・おばあちゃんに当たる人物の話になります。これは時代が時代なのでしょうか。出産したばかりの女性をぶん殴るなどなかなかショッキングな話でありますが、本人の証言が得られているノンフィクションなんだそう。なお、著者の佐野氏は「孫正義は、個性的すぎる遺伝子が二代寄り集まってスパークした異能だった。その異能にドライブがかかったのが、十六歳からのアメリカ留学だった」とも評価しています。

孫正義氏、起業

起業以降の話は、広く伝わっているし本書以外にも詳しい本がたくさんあると思います。この記事では、主に幼少期・青年期の孫正義氏をクローズアップできたので満足なのですが、本書独特の視点で描かれるエピーソードをあといくつか紹介します。

「安本」ではなく「孫」で起業する

ここでは事業家になるんだと決心した時の思い、「多くの在日韓国人のプライドを取り戻し、天下国家のために役立つ事業ができるようにする」という気持ちが込められたシーンであり、反対する親戚一同の静止を振りきって、「孫」という名前で旗揚げをすることとなりました。

「孫という名前で、ユニソン・ワールドを始めました。そのとき、二つの選択肢があったわけです。孫の名前で会社を興すか、それとも元の安本にもう一回戻って、会社を興すのか。僕の親父も親戚のおじさん、おばさんも全部安本の名前で通していましたからね。だから、孫の苗字のままで日本で会社を興すのは、親戚の中では僕が第一号なわけですよ」──孫の苗字のままだと、韓国人だということがバレちゃいますからね。親戚は孫さんが安本という日本名を捨てたことに反対しませんでしたか。「猛反対でしたよ」(中略)「孫という本名を捨ててまで金を稼いでどうするんだ、と言いました。それがたとえ十倍難しい道であっても、俺はプライドの方を、人間としてのプライドの方を優先したいと、言いました」

日本ソフトバンクの設立が1981年。1990年、孫正義氏が日本人に帰化。1994年、ソフトバンクは上場し、1996年Yahoo!JAPAN設立。2001年にブロードバンド事業参入、2004年にダイエーホークス買収、2006年ボーダーフォンを買収と、ソフトバンクの成長につながっていきます。

いま振り返る、差別についての孫正義氏の回答

「差別はされました。でもそれはいつの時代でも、なにがしかはあったことですよ。日本の中にだって、ほんの百五十年前までは、士農工商っていう身分制度が社会構造の中に明確にあったじゃないですか。僕はやっぱり、生まれ育った国を愛し、その生まれ育った国に少しでも恩返ししたい、貢献したい。それが掛け値なしの純粋な気持ちです」

ソフトバンクの成長および孫正義氏の起業後の活躍は、別の本を当たってください。たくさんの記述が、もはや亡くなった人の伝記のような扱いで見つかります。しかし、出生にここまでアプローチし、事業家になるんだと腹をくくるまでに至った経緯を取り上げた本が他にありましたでしょうか。(否、無い)この記事ではボリュームたっぷりにご紹介することができたと思うのですが、それでも本書の魅力の5%くらいしか取り上げていないように思います。

韓国に住む親戚は、孫正義氏をどう見ているのか?父や祖父のさらなる話題やビジネス観は?結婚秘話は?より一層孫正義氏にアプローチし、その凄さに触れつつ、「あっこりゃ俺には無理だな」と腑に落ちる壮絶なエクスペリエンス。しかし、ここまで壮絶ではなくとも、自分の内面と向き合うことで得られるエネルギーがあることも知り、学生時代くらいに自分の心に閉じ込めたコンプレックスと、久しぶりに向き合ってもみようかなと思わせます。ぜひ、味わっていただきたいと思います。

今日の「THE READING EXPERIENCE」

本書の中のエクスペリエンスで一番ツボだったのは「ドブ川が、大雨が降るとあふれ出て、あっという間に部落全体が水没してしまう。その中に豚がぷかぷか浮かんだりして、ついでに豚のウンコまで浮かびあがる」でした。こんなエクスペリエンス、マジ勘弁。

もうひとつ、ありました。「突然、安本くんが話を遮るようにして、ぽつりと漏らしたんです。『実は、僕は在日韓国人なんだ』って。」これもツボでした。本書は、自分に役立てるものだとすると、コンプレックスとの対峙なんだろうと解釈をしています。中学生の頃、まだ何者でもなかった孫正義氏が、自分の出生を打ち明ける。相当な葛藤と戦いだったと思います。その後、自分の出生に関する差別体験が大きなエネルギーになるのだから、孫正義氏と比べるべくもない小さいものだとしても、心の対話、閉ざした自分との対峙をしてみようかなと思わせるものなのです。

あんぽん 孫正義伝

あんぽん 孫正義伝

 

なぜ最年少上場ができたのか。幼少期~創業まで/リブセンス<生きる意味>(上阪徹)読書感想/書評

どんな原体験があったら、最年少上場ができるのか

2011年12月7日、リブセンスは東証マザーズに上場した。

「自己啓発本でもなく、教科書的でもないビジネス書」を探すため、他人のビジネスを疑似体験できるノンフィクション本を紹介する本ブログ。本日は、リブセンスの村上氏にアプローチをしてみました。

2011年に最年少上場記録を5年ぶり(直近の記録は、26歳2ヶ月のアドウェイズ・岡村陽久氏)に塗り替えることとなったリブセンス・村上氏。最年少上場記録はつい先日のことかと思いきや、上場して5期目を終えたところであるということで、なんと日が進むのは早いことかと。

同じIT業界に身をおく私としても、リブセンスの行く末は気になる所ですが、ここで2012年の著作を振り返り、「創業までにどんな原体験があったら、最年少上場ができるのか」ということを本記事では究明していくこととし、リブセンスの創業まで(村上氏の大学1年生2月まで)をご紹介します。

リブセンス〈生きる意味〉

リブセンス〈生きる意味〉

 

 上梓されたのは、800人以上の経営者にインタビューしてきたライターの上阪徹氏。ちなみに本書では村上氏のことを「ごく普通の25歳」と表しているが、全然そんなことないというのが当ブログの見解。まぁ私などは勝てる所がひとつも無いというか。

最年少上場当時は、ちょっと悔しいなんて思っていた時期もありましたが、素直にリスペクトして、なんなら自分の子どもが同じように育つように子育て本としてもあやかろうかと思っています。(村上氏を親がどう育てたか、という記述もあり、参考になるのです。)

リブセンスの概要

募集広告を無料で掲載し、採用が決まった利用者には祝い金を出す。これでは男性アナウンサーが「儲かるんですか?」と思わず聞いてしまうのも無理はない。
実際、そのように感じた人はほかにもいる。創業間もなくのころ、学生だった彼らが営業に行った先で、「そんなビジネスモデル、本当に成り立つの?
学生が考えそうな浅はかなアイディアだよね」
といわれてしまったのだそうだ。
だが、成り立つどころではない。創業5年で上場してしまったのだから。

高校3年生の頃から起業を志し、仲間を集め始め、大学1年生でビジネスコンテストに優勝、大学1年の2月に創業。ずっと構想にあったアルバイト募集サイトを2ヶ月強で開発し「ジョブセンス」をリリース。幾多の困難を経て、2年目に年商7000万、3年目に、売上高3億2120万円、経常利益1億5276万円を達成。

この頃大学4年生であるが、経常利益率50%という率も狂っているし、1億5000万円っていう額もやばくて、彼がどのような原体験をもってこのようなビジネスを切り開くことが出来たのかは、多いに興味があるところ。この頃には徐々に知名度もあがりはじめ、最年少上場がほぼ確定とも言われ始めていたのを覚えています。

今日のリブセンスへの個人的見解

今日では、集客の柱であったSEO対策で問題が生じ、Googleのペナルティを受けてしまった影響でしばらく赤字転落の状態が続いているよう。足元ではSEOが復調にあるらしいことと(少なくともペナルティは解除されているように思う)、まだまだ低い人材メディア系以外のビジネスで芽が出て来れば、利益がついてくるのではないか。

株価は最盛期の1/10と低迷しているものの、逆に利益が確保できる体制に移行できた場合のことを考えると割安。バリュー投資を見極めるには、そろそろ底値に近いのでは、という個人的見解があります。

どのような幼少期だったのか

ノンフィクションのビジネス書を読む時に、「なぜ起業したのか」と同じくらい、「どのような幼少期であり、どんな家庭だったのか」も気にして読みます。壮絶な幼少期が、大人になってからのサクセスストーリーを支えているケースがあり、それは平凡で平和な幼少期であった私にとっては、読書体験でしか味わえないので、「THE READING EXPERIENCE」だなぁと思うのです。

村上氏においては「両親はとても普通」と著者がインタビューの感想をもっているように、父は建設業、母は会計事務所を経て専業主婦だとのこと。意図してヒーローを育てようとは思っていなかったが、干渉もせずに見守りつつ、試行錯誤をしてきたよう。しかし、教育方針や、ところどころでの考え方は、「これ真似したいな」と思わせるものがありました。

ちなみに、父が仕事で成功しなかったこと・幸せに働いているとは思えなかった原体験が、従業員満足最大化でブランドストーリーを創りあげた「スターバック成功物語」のハワード・シュルツ氏や、佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に出生して壮絶な幼少期を過ごした孫正義氏の記録「あんぽん」などは、ブログ記事にしようと思っています。

その中で、親族のなかでいえば、身近に経営者がいたことは、起業への敷居を下げていたそうな。

身近な経営者といえば、2人の祖父の存在がある。村上の父方の祖父は、東証一部に上場している運輸会社の代表取締役専務を務めていた。(中略)母方の祖母は、四国松山で版画の三幸という画廊を経営
「例えば、幼いころから身近に政治家がいなければ、いきなり政治家を志すことはあまりないと思うんです。身近に経営者がいれば、経営者を志す心理的なハードルが下がりますよね。社長になることが、自然と選択肢に入るということです」

パソコンは、9歳の頃に入手

後の村上に欠かすことができなくなるツールであるパソコンを買ってくれたのも、母方の祖父だった。「これからの時代はパソコンだぞ、と両親に25万円をポンと渡して、買ってやれといったのだそうです。ちょうどウィンドウズ95が出たころでした。家族と家電量販店に行って、パソコンを選んだのを覚えていますね」

今日までIT系で名を挙げている経営者は、やはり幼少期にパソコンに触れていることが多いように思います。デジタルネイティブ世代と呼ばれていますが、人から言われてパソコンを操作するのではなく、自分でパソコンに向き合い、知識を吸収していった、この差はやはり埋められないものがあるのでしょう。私も、ITやネットの話だからこそ年上の方が信頼を寄せて話を聞いてくれるのであって、これがITでなければ、とゾッとすることも多いのです。

幼いころから、大人と会っていた

「たぶん接待だったと思うんですが、仕事でつながりのある人たちと釣りに行くとき、私も一緒に連れて行ってくれたんです。小学校3年生くらいからですね。東京湾の乗り合い船で海釣りに行きました」

なるほど、ふぅむと思ったこの原体験は、若くしてビジネスを成功させるにはかなり必須の通過ポイントではないか、と個人的にも思います。「石川遼選手が、若くしてインタビューの受け答えがしっかりしてたのは、幼少期から大人とゴルフをしていたからだ」とか聞いたことがあります。すなわち、大人と会う回数に比例して、態度が大人びてきて、子供っぽさが抜け、物怖じしなくなるのです。村上氏も、この法則に当てはまっていると。ちょっと私も、せめて自分の代でうまくいかなかったから…というわけではないものの、自分の子供をせっせと大人に合わせるのは、心がけてみようかなと思う所です。

ビジネスセンスを磨いてくれたのは、母

「料理にはいろんな作業がありますよね。それを効率良くやるためには、野菜を切る一方でお湯を沸かしておくとか、後でうまく炒めるために素材を半分調理しておくとか、そういった段取りが必要になる。段取りを考えて料理をやりなさい、と口酸っぱく教えられました」
母親も起業に大きな影響を及ぼしている。村上がビジネスや経営に興味がありそうだと気づいた母親は、『ガイアの夜明け』や『プロジェクトX』『ワールドビジネスサテライト』などの経済番組を、一緒に見るよう勧めてくれたというのである

母親が、事ある毎にビジネス視点での話題を事欠かさなかったそう。中華料理屋に言っては、セットと単品での餃子の単価を計算してお得な方を割り出したり、スーパーに行っては「単に安売りしてあっても、裏を読み解く」ようなことをしていたそう。

また、実際に『ガイアの夜明け』や『プロジェクトX』『ワールドビジネスサテライト』などの経済番組を見て青春時代を過ごしていたというのだから、ここにはなんだか親近感が湧くものもあります。なーんだ、もっと特殊で難解なビジネスの勉強をしていると思いきや、ワールド・ビジネス・サテライトでいいなら私もそれ見ているよ!と。もっとも、彼は自分の興味に対して素直に全方位生で吸収していったのに対し、私は主に「トレたま」で相内優香アナを見ているに過ぎなかった、という違いはありそうですが。

父親は、子どもを大人の世界に連れて行った。母親は、一緒にテレビ番組を見たり料理したりしながら、子どもの興味を伸ばしていった。それが村上の起業に影響を与えたことは明らかだ。
だが、おそらく、両親も試行錯誤していたのだろう。親が勧めたものの、中学受験には向いていなかった。また、母親は口酸っぱく「本を読みなさい」といっていたが、子ども時代の村上はあまり本を読まなかった。
子育てに正解などない。辛抱強く見守り、サポートを続けたことが、大学時代の創業へとつながり、花開いたのだ。

父、母ともに役割を意識してか自然にかはわからないものの、「試行錯誤の連続であった」ということにはやはり勇気をもらえます。決して、順風満帆に物事が進んだわけではないこと。読書をしなさいと言い続けたがために、読書はしてこなかったとのこと。(もっとも今では読書家だそうであるが)

少年時代に株式投資

その他にも、学生時代に親の進めで株式投資をしたり、何事も見守る親のもとで成功体験を積み重ねていったことが、ビジネス思考のベースを作り上げ、いまの大躍進の糧となっているようです。

「インターネットトレードですね。単元株ではなく、その10分の1でできるミニ株という取引でした。○○社を何株買いたい、と両親に伝えて取引してもらいました」
「ある程度のことはやろうと思ったらできる。子どものころからの日常の小さな成功体験を繰り返したことで、そういう自信が得られました。だから、自分で事業や会社を興すこともできるんじゃないかな、と当たり前のように考えるようになったんです。会社に勤めるのもいいけれど、自分で立ち上げたらどうなるか、やってみたい。これまでも自分が好きなことをできたんだから、起業だってできるだろう。ひとつひとつは小さくても、成功体験の積み重ねで得られた自信は大きかったと思います」

起業前夜、高校3年生から大学1年生2月まで

推薦で入学した早稲田大学高等学院を経て、早稲田大学政治経済学部には自動的に進学。ビジネスに興味をもち、先にあったとおり経済TV番組などを見たり、この頃には読書をしていたようです。起業を決意したのは高校3年のタイミング。以外にも、はっきりとした理由はなく、ぼんやりとなんとなくビジネスをやることになるんだろうなぁと意識が徐々に向いていたという。しかし、決意してからの村上氏の動きはまた、非凡なるものが大いにありました。

後にジョブセンスのきっかけとなる原体験

「アルバイトしているときに店長に聞いてみたら、ネット上に広告を1回掲載するのに10万円かかったそうです。それで採用したのは、私ひとり。ひょっとして、これってとても効率が悪いんじゃないかと思いました」
「このときの不便さをずっと覚えていました。自分も満足できなかったし、広告を出したお店も満足しているようには思えなかった。不便を解決するのがビジネスだと思っていましたから、これを解決すればいいんじゃないかと考えるようになっていったんです」

ビジネスをやると決めたからこその学部選び

「実験もあればゼミもあって、たくさんのレポートを提出しなければならないことがわかっていました。本当に会社をやりたいのであれば、理系に行くのは無理だと思ったんです。それで、文系にシフトすることにしました」

このような考え方を当時から行うことが出来た事実にあたっては、彼の非凡さが証明されているのか、早稲田大学高等学院の環境もそうさせたのか分かりませんが、「視野が高い」と一言で片付けるのが難しい、優れた意思決定であるように思います。

性格を創りあげた「成功体験」「負けず嫌いだが現実主義でもある」

「中学でも高校でも、勉強やスポーツで、かなわない人がいました。私は負けず嫌いなので、〝人に勝てないことがある〟ということについて、自分の中で消化しきれていたわけではありません。でも、受け入れるしかないですよね。ただ、何かひとつで勝てなかったとしても、総合力なら勝てるかもしれないな、と思うようになったんです。それは、文化祭の運営をうまくやれたことが大きな自信になりました」

文化祭でリーダーになり100人を動かした、という高校時代の原体験も、起業にダイレクトに結びついていることが本書でもわかります。なんか、起業をする際に頼りにする成功体験って、ビジネス関連だけのような気がしますが、きちんと中学・高校時代の自分なりの成功体験も根拠にしていいんだ、心の拠り所にしていいんだ、と思えるのは、いま学生生活を過ごす方々にも大変勇気になる金言なのではないでしょうか。

きっとそのように意識しはじめた途端に、自分の中をただ流れるだけだった時間が、どんどん自分に蓄積されていくように思います。

ビジネスコンテストで優勝

「優勝者の特典がオフィスですから、実際に起業する意欲があることがとても大事だと思いました。本当に起業するということをしっかりアピールする必要がある。また、コンテストといっても、講座の授業がまずあって、その後に行われるわけです。つまり、授業の間にやる気を見せられるチャンスがある」

大学進学後、早稲田大学の「ベンチャー起業家養成基礎講座」が実施したビジネスプランコンテストで優勝。優勝賞品である「オフィス1年分無料」がどうしてもほしくて、競合調査や審査員となる教授への積極的なアピールを欠かさずに、戦略的に優勝を勝ち取ったそう。この時の発表プランは、「ジョブセンス」の原型となるビジネスプラン。彼が、自分の原体験をもとにしたビジネスへの着想にこだわっていくのは、今後も同様であり、WEBメディアという「ものづくり」のヒントになります。

起業までの間に、起業に備えて「営業」を勉強

「簡単にアポが取れないということがわかっただけでも大きかったです。途中からようやく、少しずつコツがわかってきました。半年間ずっとやった結果、どうやって受付を突破するか、どんなトークがアポイントを取るために有効なのか、といったノウハウはずいぶん得られたと思います」
ベンチャーコンテストで評価されたビジネスモデルがあるのだから、早くその事業を立ち上げてみたいと考えてもおかしくはない。優勝したことでまわりからの注目もあったはずだ。
だが、村上は冷静だった。ベンチャーコンテストが終わったのは7月だが、起業は翌年の2月と決めた。準備期間を長く取っただけではない。創業メンバーの全員が起業に専念できる時期を考えたのだ。

この部分が特に、本書の中でも面白かったパート。焦らず、でも段取り良く、戦略的に、ストイックに、という彼の基本的な思考がそのまま活きている部分なんですよね。大学一年生の時に、2月と決めた創業までの間に、営業の勉強のためアルバイトするとは、なんともテンションの上がる疑似体験なわけですよ。

本書を読むということはですね、すなわち、「村上太一は普通の少年である」と断定している著者の意見に対して、なんで普通の少年が最年少上場できるんだ?と理由を探す旅でもあるのですが、「いやぁこれは最年少上場するわ」とそろそろ納得してくるのがここらへんでもあります。人生の展開が早いだけでなく、しっかり考えてるわ、この人、と。

ちなみに本訴では村上氏を「新しい経済人」と称し、震災や民主党政権化にあった2012年頃の暗い雰囲気に対して、打破するヒントを探すみたいな展開であるのだけども、その試みには失敗していると言わざるを得ないかな、とも思うのがこの辺であります。非凡な青年が、きちんと計算して修行したうえに、Google時代、SEOによるネットベンチャー大チャンスの波にきちんと乗って上場をしている。こりゃ再現性は低いでしょう。

創業前から、最年少上場を意識

結果的に25歳と1カ月で上場を果たした村上だが、実は創業する前から、史上最年少での上場を意識していた。
大学1年のときに初めてビジネスプランを作ったときも、最年少上場記録を更新することを目標として記していた。「史上最年少上場というのは、おそらく思いつきで書いたんだと思います(笑)。記録はあまり気にしていませんでしたが、上場することは、大きな会社を目指すなら当然のことだと思っていました。もともと、たくさんの人に喜んでもらって、世の中に大きな影響を与える会社を作りたいと思っていたわけですから」

本書を手に取る際に一番気になっていたことは、実はここでした。意識的に最年少上場を狙っていたのか、結果的に最年少上場となったのか。最初は思いつきだとはいえ、語るうちに応援者も増え、現実的になってきたのでしょう。3年目に売上高3億2120万円、経常利益1億5276万円を達成するわけですから、これは市場性のみならず圧倒的な目標の高さもあってこそとは思いませんか。

リブセンス創業

創業時の資本金は300万円。村上が200万円、ほかのメンバーが合わせて100万円を出した。
村上は200万円もの大金をどう捻出したのか。50万円はアルバイトなどで貯めた。残りの150万円は、両親に借りたという。

2006年2月8日にリブセンス創業。社名の意味は、「生きる意味」。本記事では、今日はここまでのご紹介となりますが、後編、起業から上場までの話も相当な勢いがあり面白いです。本ブログでも記事にするかもしれませんが、本書をぜひ手にとってみて下さい。起業後には「年上社員に対する扱い」「自身の給与」「学生ベンチャーが、「会社」となるまで」等、また魅力的なトピックスにあふれています。

今日の「THE READING EXPERIENCE」

今日の「THE READING EXPERIENCE」という締めくくりのコーナーを設けてみました。定番になるかは分かりません。

本書の中のエクスペリエンスで一番ツボだったのは「2月と決めた創業までの間に、営業の勉強のためアルバイトする」でした。明確な夢を持ち、自信にも満たされてきたタイミングで、自分に足りないものを身に付けるため修行する。絶対楽しかっただろうな。しかも学生時代に。私も、願わくばもう一度学生時代に戻り、味わいたいものである!

しかし、そういうわけにはいかないし、私はモデルと付き合えるZOZOTOWN前澤氏でもなければスターの五郎丸歩氏でもなく、リブセンス村上氏でもないので、せめて本で他人のビジネスを体験し、達成感もあれば地獄もあるエクスペリエンスを味わいながら、人生の糧にできないものか試行錯誤するものであります。

 

リブセンス〈生きる意味〉

リブセンス〈生きる意味〉